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洋の東西は問わない 「文字を美しく書く」 こと [2024]

 文字を美しく書くことに関しては令和四年四月号の本欄でイギリスでも日本の「習字」と同じような教育がなされていることを紹介しました。書字と脳について研究していると、欧米でも文字を上手に書くことについて、日本人以上に高い関心があるのではと感じられることが多々あります。
 例えばアメリカの医師ゴーディナーの報告です。彼は一八九九年に書字中枢の一つとされる脳のエックスナー中枢の失患による失書の症例を報告しています。彼はアイルランド人の婦人患者を診察し、この患者の書いた文字を以下のように表現しています。「達筆であった彼女が文字を書くことが出来なくなってしまったのだ。ペンの持ち方には問題がなく、書くことが出来るようにペンを動かすが、その書字は連続した一連の曲線に過ぎなかった」。このように脳と書字の研究においては洋の東西を問わず、文字の書き方の功拙や筆記具の持ち方についての記述がよくみられます。ちなみにこのエックスナー中枢とは一八八一年にドイツの神経学者エックスナーが世界で初めて報告したもので、彼は今までの文献例を詳細に検討し、失書が認められた症例では、どの症例にも左中前頭回後部(頭の左前上方あたり)に損傷がみられたことから、この部位を書字中枢と想定したものです。
 一八七三年に欧文タイプライタ丨が実用化したアメリカでは、手書き教育について日本よりも先に考えてきた歴史があります。一九三〇年代頃にはアメリカで手書き教育が軽視される傾向にありましたが、現在では日本の小学校一、二年生にあたる学年でブロック体(活字の形/楷書体)を学び、三年生から筆記体(手書きの形/行書体)を学び始めることが一般的となっています。
 欧米の「習字」の授業を見聞きする中で、生徒の筆記具の持ち方や姿勢は良く、手書き教育に対する関心は日本を上回っているように感じられます。日本でも広く世界の手書き教育を俯瞰した上で、日本の漢字かな交り文を美しく手書きすることについて検討することが必要であると考えています。

教育史における読み書きの位置づけ(2024年3月号) [2024]

 人が言葉を話し始めたのは今から三十万年前頃とされています。これは、その頃の人の舌下神経の太さ(断面積)を頭骨の底部から測定したところ、四百万年前の類人猿や猿人よりも二倍太くなっていることから舌の動きが活発になったこと、すなわち「言葉」を使い始めたのではないかということによります。
 音声言語である「言葉」は、教育を受けずとも社会生活を営む中で自然に習得することが出来ますが、文字の読み書きはそうはいきません。文字という莫大なコードの習得には大きな負担が伴います。文字の読み書きを行う能力を身につけさせるためにはそれを強いる教育者の存在が欠かせません。中世の頃まで文字は王や貴族、僧侶あるいは書記などが独占するものであり、読み書き教育は一部の層で行われるものに過ぎませんでした。
 近世になり、工業的な発展と共に、読み書き教育は広く社会で行われるようになります。スイスのペスタロッチ(一七四六~一八二七)は、教育思想家、実践家として著名です。ペスタロッチは産業革命前後に始まった近代教育がまだ黎明期の頃、読み書きを学ぶことと人間性の陶冶の関係について検討をしています。ペスタロッチの著書「ゲルトルートは如何にして其の子を教ふるか」の第十二信では「我々には綴り方学校と書き方学校と問答学校とがあるだけである。そうしてこれに対して人間学校が必要である。」と述べています。教育が一般化する中で、ペスタロッチは読み書きの習得といった実学が人間性の陶冶と一体どのような関係にあるのか、既に模索を始めていたことが分かります。
 文字がボタンを押せば出来上がるだけでなく、作文や会話までもが人工知能によって行われ得る今日において、人間性の陶冶という教育の究極の目的に対する方法は、未だ明らかになっているとはいえません。しかし読み書きをする人間の脳機能が科学的な視点から解明されつつある昨今、読み書き教育と人間形成の関係が明らかになるのも歴史の流れになるかも知れません。

日本の古典文献からみえる 手書きと「人間形成」 [2024]

 日本における心と書に関する文献について古くは平安時代、空海(七七四~八三五)の『性霊集(しょうりょうしゅう)』があります。その中には以下のような言葉が見えます。「古人の筆論に、書は散なりと云うは、但に結裹(けっか)かを以て能しと為すのみに非ず。必ず須らく心を境物(けいぶつ)に遊ばしめ、懐抱(かいほう)を散逸し、法を四時に取り、形を万類に象(かたど)るべし。」これは、ただ単に文字の形を書けばよいとしているだけではなく、文字を書くということは心を自然界にゆったりと遊ばせ、発想の展開を自由にし、手本となる法則を移り行く四季に求めて、文字の形態を森羅万象に具象化することがどうしても必要である、ということです。
 鎌倉時代、吉田兼好(生没年不詳)の『徒然草』には「手のわろき人の、はばからず文書き散らすはよし。見苦しとて、人に書かするはうるさし。」とあります。字の下手な人が、遠慮することなく手紙をどんどん書くのは良いことである。自分の字を見苦しいといって、他人に書かせるのは、いやな感じがするということです。この文には心を伝える書簡において文字を自分の手で書くことの意味についての兼好の考え方が示されています。
 南北朝時代、尊円法親王(一二九八~一三五六)の『入木抄』には「字形は、人の容貌、筆勢はひとの心操、行跡にて候。」という言葉が見えます。字の形は人間でいえば顔かたちであり、筆勢は人間でいえば心ばえやその立居振舞のようなものであり、筆勢に心のありようが表われるとして述べています。手書きをすることは大脳を広く大きく動かす行為です。筆跡に人の心が現われるが由にそれと向き合うことの大切さを先賢は述べています。
 最近、手書き教育が見直されています。スウェーデンでは保育園へタブレットを導入するなど国を挙げて教育のデジタル化を推進してきましたが、それが基礎学力の低下を招いているのではないかという指摘を受け現在、紙の本と手書きへと回帰してきています。手書き教育における「技能習得」から人の心を育む「人間形成」への移行は、世界的に大きな潮流となりつつあると感じています。

心閑にして楽余り有り(こころかんにしてらくあまりあり)(2024年1月号) [2024]

 昨年は四月に六年ぶりとなった東京書藝展が池袋の東京芸術劇場において、また十一月には快晴の文化の日に明治記念館において授賞式が滞りなく開催出来ましたこと、会員の皆様に厚く御礼を申し上げます。日本の文字を美しく書くことの大切さを皆様が理解され、豊かな日本の社会の魁(さきがけ)とならんことを祈念しております。
 コロナ禍を経て世間では様々なイベントが再び行なわれるようになりました。書の世界でも、展覧会や表彰式は大切な行事に位置づけられます。ただし、書の行事には特有の性格があります。そこには他者との勝負を競うようなものでもなく、熱狂や興奮といった感情の高まりとは縁遠い自省の世界が広がります。
 人間の脳にはデフォルトモードネットワークという機能が存在していることが分かってきています。これは安静にしている状態で活動を始める脳の機能で、対人関係などコミュニケーション能力といった人間の高次な機能の活動を促します。じっと何もしないで座っていると、一見時間を無駄にしているようですが、こうした効果が最新の脳科学では分かり始めています。
 「心閑にして楽余り有り」という言葉は南宋の葉夢得の言葉です。心がのどかで雑念がないと、尽きない楽しみが生ずる、という意味です。心の安寧が大きな福徳に通じるという先賢の言葉は多くあります。「心和し気平らかなる者は、百福自(おのず)から集まる」という言葉は明の洪応明「菜根譚」によります。心が和やかで気持ちの平静な人のもとにはあらゆる幸福がおのずと集まるという意味です。
 紙の前に端座し、心静かに筆を執ることは先の見通すことの難しい複雑な現代において、物事を理解し、判断し、解決する有効な手段であると私は考えています。ぜひ日本の文字を美しく書く生活習慣を大切にして下さい。この一年が皆様にとりまして実り豊かでありますことを祈念しております。

鏡文字について(2023年12月号) [2023]

 鏡文字とは、鏡に映した時のように左右が逆の文字のことで、鏡映文字、裏文字、左文字などとも呼ばれます。鏡文字の発生は以下の三種類に分けることが出来ます。①成人の左半球損傷患者②文字を習得中の小児③左利きの正常成人。鏡文字は脳の左半球の損傷によって発生することから、左右といった感覚の中枢は脳の左半球で行なわれていると考えられています。ただし、左半球のどの領域が左右の感覚を司っているかは明らかになっていません。
 子供が鏡文字を書くからといって心配する必要はまったくありません。文字を書くという行為は脳の中で使われない領域がないといわれる程、脳の並列的な活動を指向するため、左右の感覚も含めて書字活動がまだ行われていないだけで、文字習得の途上にある子供にこうした鏡文字が発生することは学習の過程でしごく当然なことです。例えば、成人でも配字や点画の書きぶりに注意して書くと、誤字を書いていても気がつかなかったり、字形、字粒、線の表情に注意して書くと筆順がおかしくなったりするのと同じです。
 左利きの正常成人に鏡文字が現れ易いことについてはいくつかの説があります。まず、左半球に蓄えられている正字の記憶が右半球に伝えられる際に反転され、鏡文字となる説。次に左手は本来、右手と対称的な運動を行い易いので右手の正字の対称的な運動である鏡文字を書き易いという説。この二説が正しいのであれば、すべての文字は鏡文字となるはずですが、子供の鏡文字を見ても、それは常に鏡文字になっているわけではありません。自説を展開するとしたら、右利きの場合、交叉支配の原則により、左半球の活動が促されます。右利きの人の98%は左半球に言語を司る領域があるとされ、左半球の活動が活発化すると共に、左半球の左右感覚の活動が促されます。左利きの人の70%が左半球に言語を司る領域があるとされるため、左半球の左右感覚を司る領域の活動が促されにくいという点にその発生の理由があるという説です。人間が文字を使い始めた数千年前には左右の別を以て文字を書いていなかったことも、この説を支持すると考えられています。
 文字を手書きすることと脳の研究は現在急速に進んでいます。文字を美しく手書きする生活習慣をぜひ大切にして下さい。

思考を伴う手指の細かい運動とは(2023年11月号) [2023]

 人の手指の使用と言葉の発達の関係についての研究は以下の二点が前提となっています。――― 言語野(げんごや)の発達は人類の直立と関係がある。言語野の発達は人類の手仕事の発達と並行している。―――言語野とは脳の中の言葉を発したり、文字や文法を理解、産出したりする領域を指します。言葉の発達と手指の運動が一体どんな関係にあるのかは、手指の運動と言語を司る領域の位置関係にあります。心臓から送り出された血液は脳へと供給されます。脳の運動を司る領域の中で手指を司る領域は、体全体の半分ほどを占めています。手指の動きは脳の活動を促すのです。言語野と呼ばれる領域はこの手指を司る領域のちょうど下方にあたり、手指を使うことは、言語野の血流の上昇を促すことになるわけです。およそ七百万年前に直立したと考えられている人類は手指の自由を得、思考や言語を発達させてきたというのがこの分野の研究の前提ということです。
 それならパソコンでも手指を大きく使うから同じではないかというと、そうではありません。日本語をタイピングする場合、ほとんどの人はローマ字入力をすることと思います。一方手書きの場合、かな文字四十六文字に加え、常用漢字二一三六文字を日常書くことになります。タイピングが手指の動きとしては、字形、字粒、配字、書体に関係なく常に二十六通りであるのに対し、手書きは二千通り以上か、その数乗倍の手指の動きのバラエティーをコントロールすることになるわけです。手指の自動化された熟知運動は、思考を伴う手指の細かい運動の領域である前頭葉ではなく、脳の後方にある小脳が司ることになります。「書く」という言葉で一括りされる両者の行為ですが脳の活動としては大きな違いがあるのです。
 先日、スマホの基本原理を開発した科学者のお話を聞く機会がありました。米国には仕事柄よく行かれるということでした。米国のIT企業の会議室では四方にホワイトボードが設置されており、手書きをしながら活発な議論を交わしていると話されていました。また、手書きは大脳全体を大きく使う行為であり大切にすべきだとも指摘していました。
 欧文をアルファベットでタイピングする場合、日本の漢字の構築に相当するスぺリングの知識が必要となります。日本語をタイピングする場合、文字の音韻に対応するアルファベットのキーを押すこととなります。日本の文字は、手書きすると世界で最も難度が高い部類となり、一方、タイピングするのは比較的簡単です。脳科学の世界では今、手書きする脳の神経基盤をいち早く解明しようという競争のような動きさえ見られます。このような研究が社会へと還元され、豊かな日本社会の礎となることを願っています。

書の道は歩みて止まず(2023年10月号) [2023]

 史上最高の猛暑でお疲れの方も多いのではないでしょうか。それでもコロナ感染症に対する警戒が薄れたこともあり、行楽地は多くの人で賑わったようです。今まで行動を制限されてきただけに出掛ける楽しさもひとしおでしょう。季節はめぐり、文化に親しむ秋が到来しました。心を落ち着かせて筆を執り、書をしたためるには絶好の時節です。世間ではデジタル化推進が叫ばれていますが、私はデジタル化イコールタイピング、アナログイコール手書きとは考えていません。手書きについての研究は、人工知能、行動科学、応用脳科学といった側面から熱い視線が注がれており、科学の最先端の話題です。手書きをすることはデジタルを使いこなす格好の手段であると私は捉えています。
 新しい技術イコール善いもの、とする考え方はいかがなものでしょうか。目に見えず、また知覚もされない新しい便利な機械には、相応の科学の検証が必要です。例えばX線技術が開発された頃、これは便利ということで靴を作る際、足型をこれで撮るということが行われていました。しかし放射線の被爆という影響が知られるようになり、今は行われていません。デジタル技術は人間の暮らしを豊かにしてくれる面がある一方で、それに依存することによって人の身心にどのような影響があるか多くの人にはまだ知られていません。
 手書きの大切さは洋の東西を問わず広く認められ始めており、習字教室に通う子供は少子化といわれる中でも増え続けています。大人も手書きをする意義をよく考え、生活習慣として生涯にわたり書と歩みを続ければ、世界でも最高度の文字文化を擁する我が国は、再びその輝きを増すことと私は考えています。爽秋のみぎり、会員の皆様のますますの御健勝を心より祈念しております。

文字の形の標準と許容について (2023年9月号) [2023]

文字をタイピング、もしくはパネルにタッチして書くことの多くなったこの頃でも、教育の現場で「書き取り」は必須の課題です。私が学生の時に師事した国語教育界の大御所の教授も、授業を進める中で時間が残ったらまず漢字の書き取りをさせるとよい、とよくおっしゃられていたことを想い出します。書き取りはもちろん手書きですから、自分の頭で字形を想起し、それに添い手を動かさなければなりません。この一連の作業の中で、脳はどのような活動を行っているのかというと、まず側頭葉でひらがなやカタカナで示された文字を言葉として認識し、それに相当する漢字の字形を頭頂葉の中で描きます。目の前の紙面を視覚で把握するのは後頭葉、最後に前頭葉の機能である手の細かい動きを伴って頭の中で計画した文字を完成させます。一方、タイピングで文字を書くとなると、文字の音に対応した漢字を候補の中から選ぶこととなり頭の中で字形を構築したり、字形に添う細かい手の動きを必要とせず、頭頂葉や前頭葉の活動を促しません。手書きは基本的に全脳的な活動となるわけですが、これに美しく書く、という要素が加われば、体性感覚野、運動野などの更なる活動が必要となり、脳の成長が期待されます。書き取りをする脳の機能がまだ明らかになっていない頃、先賢はこの課題の教育的重要性を経験から知っていたのでしょう。
 書き取りを課す側の責任も重大です。標準字体というものを金科玉条のものとして、はねる、とめる、長短といった漢字の骨格には関係のないところを指摘してバツとすることがありますが、それはいけません。標準字体表の運用の注意書きにも許容の形を大切にするようにとあり、また「常用漢字表の字体・字形に関する指針」文化審議会国語分科会報告( 文化庁) といったすべての漢字の許容の形について丁寧に記した指導書もあります。ひらがなに至っては曲線が多く、標準字体さえ示されていないため、各教科書会社で違いがあり、例えばA社の「な」の下の結ぶ部分は三角形で、B社は丸くなっていたりします。
 文字というのは言葉であり、車のハンドルと同じで、その「遊び」の幅が狭過ぎても逆に緩過ぎてもうまく使いこなすことはできません。字形の許容の考え方が分かれば手書きする楽しさはまるで音楽を奏でるかのようにグンとアップするはずです。文字を手書きする教育的意義を教育者がしっかりと理解しなければならないでしょうし、また社会人の方々もこれについて考えていくことが大切かと思います。

宣教師が見た日本の教育(2023年8月号) [2023]

 習字を日課とした寺子屋は、江戸時代の教育を支えた庶民の学校として知られています。江戸時代が一六〇三年からとすれば、それ以前の教育はどう行われていたのでしょうか。
 フランシスコ・ザビエル(一五〇六~五二)は、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師です。一般に戦国時代と言われるのが一四八〇~一五七〇年頃ですから、ザビエルはちょうどその頃に日本を訪れたことになります。ザビエルが一五四九年に知人に宛てた書簡には、日本人が子供を虐待せず大切に育てていると述べています。また、子供達の賢明さも賞讃しています。安土桃山時代の一五八五年に来日したルイス・フロイス(一五三二~九七)は、日本人女性の多くが文字を書くこと、教育において体罰を行わないこと、子供達は寺で学習すること、日本の教育はまず書くことを学び、のちに読みを学ぶこと、日本の子どもは十歳でも五十歳と同じくらいの判断力と賢明さ、さらには思慮分別を備えていることなどをその著書『日に ほ本ん 覚おぼえがき書』に記しています。この時代に日本を訪れた宣教師たちが日本のどの地域でどのような階層の人々と交流したかは定かではないものの、習字を中心とした江戸の寺子屋教育は、当時既に芽吹いていたことが想像されます。鎖国令の出された一六三三年以降一八五四年迄こうした海外から見た日本のようすの記録は極端に少なくなります。
 教育の中心が「習字」であり、それが人間形成を目的とすることであることは、機械で文字が打ち出せるようになった現在でも変わりません。手書きは文字の形態の正確な想起、運動計画、運動実行、視覚と手の巧緻な運動の協調、適切な筆圧を保つといった脳の非常に複雑な機能を統合的に必要とする行為であり、結果、その中枢ある前頭葉の人間の高次な機能の発達を促します。一方、機械で日本の文字を打ち出す場合、手書きと同じ言語活動でありながら手指の運動は基本的に文字の音韻に対応したアルファベットのキーを押す単純な行為となります。生成AIの存在がクローズアップされる昨今、人間の身体性にも注目が集まっています。人間が手書きすることの意味について考えなくてはならない時代が到来しています。

中国古典文献にみえる 書写書道教育と人間形成(2023年7月号) [2023]

 人間らしい心、すなわち人間以外の他の動物が持ち得ない恥や思いやりといった高等な感情、こうした心と書に関する文言については中国の文献に古くから見られます。『揚子法言』問神には「書は心画なり」とあります。この著書は前漢時代のものです。また「心正しければ、則ち筆正し」とは柳公権の著した『旧唐書』に見られる言葉です。心のありようが書に反映されるということは、この頃から既に言われていたということです。
 北宋の蘇軾(一〇三六~一一〇一)の著書『東坡題跋』巻四「論書」には、「書には必ず神・気・骨・肉・血有り。五者一を闕か かば、成書を為さざるなり。」という言葉が見えます。書には必ず神・気・骨・肉・血の要素があり五つのうちどの一つが欠けても、立派な書にはならないと述べています。蘇軾のいう「神」は、漢代以来の重要な芸術用語で、精神を意味し、形の対語として用い
られます。「気」は気力あるいは生気の意味です。明の項穆(一五五○?~一六○○?)の著書『書法雅言』には「書に性情有るは、即ち筋力の属なり。」という言葉が見えます。書に生命力や趣を持つ者は筋力を持つのと同じであると述べています。ここでいう「性情」は人の性質や心情を、また「筋力の属」は肉体の力を持つ者、すなわち人間を指しています。清の王宗炎(一七四九~一八二五)の著書『論書法』には「書を作る道は、規き矩くは心に在りて、変化は手に在り。」という言葉が見えます。文字の姿態や形勢に、気ままな筆づかいが見られず、きちっとした規範がそなわっている、これは心の働きになると述べています。
 他にも書と心のありようについての関連に触れている中国古典文献は数多くあります。書が人の心を表わすものであり、書写書道教育が人間形成と関連性を持っていることに昔から多くの人が気づいていたことが分かります。最近ではこれに脳科学の知見が加わり、なぜ「書は人なり」であるのかが解明され始めています。現代社会において書の役割は今後益々重要になってくるでしょう
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