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読み書きの復権(17/08) [2005]

最近、小中学校の国語教育の現場では「群読」という音読方法が注目を集めています。これは、教科書の文章をある時はクラス全員で、またある時は一人で、そしてまたある時はパートに分かれてまるで劇のように声に出して読み進める方式の学習です。
 この学習の利点は、みなで声に出して読み進めることによってイントネーションのおかしな点を先生がほとんど指摘しないで済むという点です。これは何も先生が楽を出来るというわけではありません。一人だけで皆の前で音読をして、誤りを多く指摘されたりすると、生徒が発音に対して自信を失い、国語嫌いに陥り易いといった音読のマイナスの面をカバーするからです。
 現在、気持ちの込もった抑揚のある話し方は、脳の右半球が関わっていることがわかっています。また他の人の声を聞きながら、同時に「声に出して読む」という行為をなすことにより、左半球の言語野が賦活してきます。そして、役割分担等をなすことにより、ある程度の責任感と緊張感を保ちながら読み続けていくことが可能となります。
 この群読は明らかに子供達の脳を覚醒しています。ただし、その文章の内容をよく理解しているかどうかは別問題です。例えば子供達はよく百人一首などを暗唱したりしていますが、この色恋沙汰を含めた深遠な内容を小学生がしっかり理解出来るわけがありません。また、江戸の寺子屋時代には難解な漢文の朗読が子供の大切な課題でもありました。美しい文章を抑揚をつけて声に出して読むことは文章理解とは別に、それだけでも頭の器を形成する「読む」学習として成立しうるわけです。
 では、「書く」という行為はどうなのでしょうか。人の「書く」という機能は「読む」「書く」「聞く」「話す」の中で最も複雑で、そのメカニズムの解明が遅れている領域です。実際、教育の現場でも、視写させるだけで文章理解や作文力が上昇するという報告がよくなされます。
 パソコンばかりで文章を書いて(打って?)ばかりいると漢字が書けなくなるとはよく聞く話です。朗読同様、手書き文字はキーボード書字とは異なり脳の右半球が深く関与していることがここ数年の研究でわかってきています。学力低下論争の中、読み書きの大切さが声高に叫ばれていますが、今一度「手で日本の言葉を美しく書きおろすこと」の意味を考え直さなくてはならない時期が到来しているように思えます。