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青年将校の遺書(17/09) [2005]

先頃 、二・二六事件を起こした青年将校ら十七人の遺書が六十九年ぶりに発見され話題となりました。その遺書の筆跡は二十代後半から三十代にかけての青年とは思えぬ程背筋のしっかり通った堂々たるもので、憂国の士の精神が伝わってくるようで、私も興味深く拝見させていただきました。
 書家をやっていると、手で書かれた文字ならどんな人の筆跡であろうと興味深く観察してしまうくせが身についてしまいます。特に職業と筆跡とは深いかかわりがあるようで、武人なら武人、僧侶なら僧侶、政治家なら政治家と歴史的に見ても共通した要素が感じとれるものです。
 ただ、二・二六事件を起こした世代の軍人の書と、その上の世代の軍人、例えば海軍大将の山本五十六(一八八四〜一九四三)や、陸軍大将の山下奉文(一八八五〜一九四六)の筆跡には決定的な差異があります。それはただ一つ、文章を書く際に「変体仮名」を使っているかどうかという違いです。変体仮名とは、この『実り』の八ページ下にあるような平仮名以外の表音文字のバラエティーのことです。一九〇〇(明治三十三)年に政府は教育上、一字一音主義をとり、事実上学校では変体仮名を教えなくなりました。変体仮名を含めた学習をなして今でいうところの中学校を卒業した最後の世代が前出の山本五十六や山下奉文です。文化人では高村光太郎(一八八三〜一九五六)、志賀直哉(一八八三〜一九七一)らが同じ世代になります。明治三十三年以降、「日本の文字が難しいから科学が立ち遅れ欧米に遅れをとるのだ。」といった思想が教育の世界で声高に叫ばれるようになります。大正の中頃に至っては大臣が毛筆習字不用論を説くようにさえなってきます。そしてその後、日本は恐慌を体験し、ついには泥沼の戦争へと突入していきます。
 当用漢字を決める時の国語審議会のメンバーだった東京大学言語学教授の服部四郎氏が昭和三十五(一九六〇)年の『言語生活』に、以下のような一文を載せています。「或る点では私は誤謬をおかしておったということであります。それは、実はアメリカへ行きまして気づいたのでございますが、それは私はただ、こう字が易しくなれば、つまりそれだけ学習の時間の負担が軽くなって、ほかのほうの学科に振向けることが出来る。学習の時間が取れる。そう簡単に考えておりましたが、実は人間は字が易しくなるとなまけるものだということに気がついたわけであります。」
 この「なまける」とは、人間が怠慢になり、のらくらするという意ではなく、病気で長く寝ていると足が弱るのと同じで、人間の脳機能、すなわち言語、思考といった脳の高次機能の働きが、文字を簡単にすればそれだけ鈍くなるということです。
 手で字を書くと脳が活性化するなどという話は、最近では子供でも知っているものとなってきています。ただし、成長段階に応じて、いかなる文字を教えていくかについての学術的な議論がまだその緒にさえついていないのが現状です。文字教育のあり方については変体仮名も含めて議論すべきだと私は考えています。国語の世界では「文字の世紀」、医科学の世界で「脳の世界」などと言われていますが、これらの研究が進めば、二十世紀に起こった歴史的事件の意味も解明される日が来るかも知れません。