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高村光太郎の書(17/06) [2005]

古今東西を問わず優れた業績を残し、師表と仰がれている人々は、それぞれに深い経験を重ねて来た人です。従ってその人の語る言葉はどんな短い言葉であっても、私達の心にひびくものがあります。…この文句は川原玄雲著「ペン字基礎コース教本」教材 の課題にある言葉です。
 高村光太郎(一八八三〜一九五六)は、彫刻家であり詩人でした。その十和田湖畔の裸婦像はあまりにも有名です。光太郎はいわゆる書家ではありませんでしたが、書に対する洞察の深さ、見識の高さは書をする者にとって学ぶべきところ大です。光太郎が“書”について遺した言葉をいくつか列挙してみます。
 『書は一種の抽象芸術でありながら、その背後にある肉体性がつよく、文字の持つ意味と、純粋造型の芸術性とが、複雑にからみ合って、不可分のようにも見え、また全然相関関係がないようにも見え、不即不離の微妙な味を感じさせる。』
 『書を究めるという事は造型意識を養うことであり、この世の造型美に眼を開く事である。書が真に分かれば、絵画も彫刻も建築も分かる筈であり、文章の構成、生活の機構にもおのずから通じて来ねばならない。書だけ分かって他のものは分からないというのは分かりかたが浅いに外なるまい。書がその人の人となりを語るということも、その人の人としての分かりかたが書に反映するからであろう。』
 『書はあたり前と見えるのがよいと思う。無理と無駄とのないのがいいと思う。力が内にこもっていてさわがないのがいいと思う。悪筆は大抵余計な努力をしている。そんなに力を入れないでいいのにむやみにはねたり、伸ばしたり、ぐるぐる面倒なことをしたりする。良寛のような立派な書をまねて、わざと金釘流に書いてみたりもする。書道興って悪筆天下に満ちるの観があるので自戒のためこれを書きつけて置く。』
 そして『書をみるのはたのしい。画は見飽きることもあるが、書はいくら見ていてもあきない。またいくどくり返しみてもそのたびに新しく感じる。』とも述べています。
 光太郎は、絵を描くことと文字を書くことの違いについて的確に表現しながら、応々にして書をする人が陥り易い、形のみへ耽溺を戒めています。
 脳の動きが細かく観察されるようになったここ数年、書が分かるということと構成力という人間の高次機能の関連性が明らかになってきています。科学的な証明が与えられていない事柄でも、偉人達の短い言葉の中には、われわれが熟考するに値するヒントが多くかくされているのです。
 日本の言葉を手で書く…こんな身近なあたり前の行為に、多くの賢者たちが言葉を寄せています。手習いに行き詰まりを感じた時は、しばし、こうした言葉に触れてみてはいかがですか。自分が今迄気付かなかった世界が広がり始めるかもしれません。