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墨場必携(ぼくじょうひっけい)を使いこなす(2008年6月号) [2008]

 「墨場(ぼくじょう)」とは、書家、文人、画家が活動をする場面のことを指します。
 江戸時代、文字を習う人が増えるにつれ、それらの人々を指導する書家が現れます。
市川米庵(いちかわべいあん 一七七九~一八五八)もその一人です。米庵は、書画会などでその書を求められるうちに、揮毫(筆で文字を書くこと、筆を揮う(ふるう)の意)に適した漢詩、和歌、名句集を作っておくことを思いつきます。これが「墨場必携」の始まりです。
 米庵の編した「墨場必携」は六巻あり、巻一には銘・箴(しん)・歌・家訓、巻二に序・記・賦・志・論・説・雑・語・書、巻三に春類付言語・夏類、巻四に秋類・冬類、巻五に鑒誡(かんかい)類、巻六に閑適類(閑静安適の意)を集めています。つまり分り易く言えば、「墨場必携」とは揮毫のためのネタ集のようなものなのです。ネタ集というといささか品のない例えですが、例えば平安時代の藤原公任(ふじわらきんとう)の選した和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)なども朗詠に適した詩歌を集めたネタ集と言えないことはありません。
 ただし、米庵の墨場必携の優れたところは、揮毫に適した題材を広くから集め、それを美しく整理した点にあります。幕末の三筆と賞賛された能書家ならではの高い見識の窺える所業に違いありません。
 現在、書店の書道のコーナーを覗けば、「墨場必携」と題した書籍が少なからず並んでいます。この「墨場必携」は、米庵が編じたものはまずありません。米庵の「墨場必携」は明治十三年に刊行されていますが、それとは別に「墨場必携」という言葉が一人歩きをし始め、米庵が編じたものではない「かな墨場必携」とか「小中学生のための墨場必携」「禅語墨場必携」「三文字墨場必携」等、無数の「○○墨場必携」があるのが実状です。私の書斎にも多くの墨場必携がありますが、その頁をめくり、新しい言葉や詩を知り、それを書きしたためる過程は、書を学ぶ者にとって大切な日課でもあります。
 墨場必携を使いこなせるようになったら、今度は自分だけのオリジナルの墨場必携を作ってみるのもよいでしょう。墨場という広大無辺な叡智のフィールドでは、墨場必携のような書物は実に頼もしい相談相手になってくれることでしょう。