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脳トレものと習字の違い(2009年4月号) [2009]

 脳ブームの昨今、習字も脳トレものの一つとして捉えられているようです。しかし
ながら、いわゆる脳トレものと習字には決定的に異なる点があり、これについて明ら
かにしておくことが「書」を学ぼうとしている人にとっては有益と考え、ここに筆を
とることにしました。
 人間何をしようとも脳の活動は伴うものです。映画を観たり、歌ったり、歩いたり
……等々、脳が動いていれば「脳トレ」になるわけです。例えば、このような機械を
使ってこういう訓練をすれば脳のこの部分が活性化する、といった具合です。この種
の脳トレものにはだいたい学者による科学的なお墨つきがあって、たとえ結果的にあ
まり効果がなかったとしても、はやりの健康機器のようにありがたく使われます。
 お習字のほうも、今、脳の中で使わない部分がないかと思われる程、同時進行的に
脳を活性化させる「脳トレ」だ、と言われています。脳トレものとの違いは、脳がど
のように動いているかについての「結果」が、まるで通信簿のごとくきめ細かく眼前
に示される、というところにあります。人間は外界からの情報の9割を視覚に頼って
おり、書を見ることによって多くことを知ることの出来る動物です。江戸時代初頭の
儒学者で教育者でもある貝原益軒(一六三〇~一七一四)は「古人、書は心画なりと
いえり。心画とは、心中にある事を、外にかき出す絵なり。故に手跡の邪正にて心に
邪正あらわる。筆跡にて心の内も見ゆれば、つつしみて正しくすべし」と述べていま
す。昔の人は脳の中身がどうなっているかについて、科学的な知識を持ちえなかった
のにもかかわらず、書が脳の中身を写し出すものと経験の中から鋭く感じていたので
しょう。ただし、この「つつしみて正す」というのがなかなか難しいところで、脳ト
レグッズのようにマル、バツとしてくれればよいのにと、私自身思うところです。
 脳科学の進歩のおかげで、文字を手で書くということが人間の心にとってどういう
作用をなしているのか随分と明らかになってきています。また同時に、明らかになる
程に、マル、バツという単純さとは対極にある書の深遠さに、額づかずにはいられな
いような神聖さを覚える今日この頃です。