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似て非なるもの(2010年6月号) [2010]

 書の世界に長く身を置いていると、作品を見れば、どの系統の先生に習ってきたのかおおよそわかるようになってきます。しかし、その系統の書風にいかにも似せて書いてはいるものの受ける印象がまったく違うものもあれば、その形が大きく異なるにもかかわらず、その師匠と同じ感興を以て迫る書があるのも事実です。
 先人の書いた古典の臨書に励んだり、師匠の手本をよく観察し、真似ることは書の上達の王道です。ただここで似せるだけに終始し、そこから何を学んでいるのかについて考えることがなければ進歩はありません。松尾芭蕉の風俗文選の中に「古人の跡をもとめず古人のもとめたる所をもとめよ」という言葉があります。古人の、いわばその死後、本人の意図と離れ一人歩きし始めた詩なり歌なり書は、後世の受け止め方次第で、いくらでもその実体を曲げられかねません。書について考えるならば、その書きぶりを真似ることに安住するよりも、その書が何を言わんとしているかを汲み取る力を養うことに労をすべきだ、ということでしょう。しかしながら、ただ真似るよりも、その意図を汲みとる方が何倍も大変であることは間違いありません。
 私の元に届く手紙の表書きを拝見すると、その筆跡を一見しただけで差出人が分かることがあります。同じ師匠について学びながら、微妙に異なった様相を呈します。このようすは実力が高くなればなる程顕著になってきます。
 世間では、書道ブームなどと言われています。自分の思いのままの書をすることは大変結構だとは思いますが、そんな自称書家の方からのあて名書きをいただいたら、筆使いは乱雑、行も曲がり、配字も隅に寄っていたりします。書道興って悪筆世に満つとはよく言ったもので、多くの人が書を筆の遊びだと誤解したままでいないようにしなくてはなりません。不景気になると書道が興こるといわれます。書道が、低廉な出資で始められる趣味であること、殺伐とした世相の中で心のやすらぎを得られることなどがその理由に挙げられます。書を始めてみようとする人が増えている昨今、その期待を裏切らず、真に書をすることに通じた稽古の場を提供できるよう私も尽力するつもりです。