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書の古典に学ぶ(2011年4月号) [2011]

書の古典といえば、本書の3ページに掲載されている顔真書の多宝塔碑であったり7ページの伝紀貫之書の高野切のことを指します。文学の世界において論語や、古今和歌集が古典に位置づけられるのと同様、古典とはその分野における動かされざる典範を指します。例えば唐の時代の三大家(逐良、虞世南、欧陽詢)の書いた文字は現在でも字体を決定する根拠となっています。文学の古典同様、長い年月を経て今を以てなお高い鑑識眼に耐え続けられる理由を考えるのなら、それを生み出した時代背景について知らなくてはなりません。古典の作り手が生きた時代には必ずや人間の潜在能力を引き出し、新しいものを生み出して是とする風潮がありました。古典に学ぶということはそんな創造性溢れる人間の心に触れるような行いであり、学書において重要な科目の一つとなっています。
 書においては古典の古典たる要件があります。まず毛先の一本にまで神経を集中させ細部迄配慮して筆力強く書かれていること。またそれと同時に全体の調和も図られていることです。一見無骨に書かれているような書きぶりの古典でも臨書をしてみると実に細かい筆使いがなされていることがわかります。全体の調和という視点から見れば太い文字があったら今度は細い文字、密な部分があったら疎の部分がありと一本調子ではありません。古典はその部分と全体の両面から言葉を豊かに表現しきっているのです。
 皆さんがお稽古している中で、一点一画は上手に書けたが、全体の配字がうまくいかなかったり、また逆のことがあったりした経験はないですか。細部にも留意しつつ、同時に全体の調和にも考えをめぐらすまでになるためには多く練習を積まなくてはなりません。ただし呪文を唱えるが如く古典を写していれば古典の持つ芸術性をそのまま手に入れられるわけではありません。古人の跡をもとめず、古人のもとめたる所をもとめよ(芭蕉)とはよく言ったものです。
 「古典」、この創造性溢れる人間の心を感じ、それを得ようとするのなら古典への盲従はかえって逆効果になるでしょう。古典を生み出した時代の人々と同じように、新しいものを生み出して是とする環境の中で、部分と同時に全体の完成度を高め、それにふさわしい言葉を表現しきること。古典に学ぶということはこういうことではないのでしょうか。