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書とお茶(2011年9月号) [2011]

お茶を飲むことを「一服」するなどといい、ひと休みすることに使います。世界中の大学のまわりにはカフェや喫茶店があり、酷使し、ヒートアップした脳にしばしの寛ぎを与えます。我が国ではこの一服するにも作法があり、それは「茶道」といわれるものにまで昇華しています。
 お茶が本邦に伝来したのは明確には分かっていませんが、奈良時代の初期、聖武天皇の頃、遣唐使などを通じて唐からもたらされてたようです。この唐風の喫茶法は、もともと漢詩文を伴う文人趣味として愛好されたものでした。この頃から既に書と茶とは一体不可分の間柄にあったわけです。現在の茶席でも書の掛軸はなくてはならないものであり、亭主が会記を筆でしたためるなど、両者は密接に関連しています。
 この書とお茶の間柄を脳と書道の研究者として、私なりに解釈してみました。書をするということ、言いかえれば読み書きをするということは頭を強いて使う作業です。しかしフル回転で使い続ければしまいにはオーバーヒートし、エンジンが故障してしまいかねません。そのためには時にはブレーキをかけ、エンジンを休ませてあげることも必要です。脳を酷使する人ほどお茶の仕方にこだわるのはこのあたりのバランスのとり方によるものでしょう。寺子教訓之書(一七九一)にも以下のようなくだりがあります。「無精もののくせとして、或は居ねむり、筆の管をくわえ、高わらい、障子を破り、柱をけがし、壁をくずし、たびたび湯茶を好み……。」要約すると「勉学に励む場としてよろしくない行為には、居ねむり、筆管を口にくわえること、障子を破ること、柱を傷つけ壁を壊し、たびたびお茶をすること……」ということになります。脳を育む場としての寺子屋で、お茶ばかりすることは好ましいことではない、と言っています。現代では常に脳をクールダウンしていないといられないペットボトル症候群なども問題となってきており、書と茶の役割について脳科学的にも検証すべき時期が来ているように思います。
 車はアクセルだけでも、ブレーキだけでも用をなしません。人の脳をうまく動かすにしても、このアクセルとブレーキのコントロールの妙が大切なのは言うまでもありません。

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