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ヘレン・ケラーの手と言葉(2012年11月号) [2012]

言葉を手で書きおろす、という仕事に従事している関係上、十年程前から脳と手書き文字について研究をしてきました。神経心理や関連の学会などに参加させていただくと、「手と言葉」についての研究が多いことに驚かされます。
 ヘレン・ケラーは「見る」「聞く」「話す」ことが困難でありながら、それを克服した「奇跡の人」として知られます。その伝記はあまりにも有名です。ヘレンは二歳のときに重い病気にかかり、目と耳が不自由になります。若い女性の家庭教師サリバン先生の献身的な教育により、ヘレンは三重苦を乗り越えていきます。サリバン先生が赴任してきた当初、ヘレンは手のつけられない程の粗暴な子供でした。サリバン先生はヘレンの手を握り、指文字を教えます。しかしヘレンはそれをなかなか言葉として認識することが出来ませんでした。
 画期的な出来事が起こります。サリバン先生が井戸水を汲み上げるポンプから出る水をヘレンの手にあて、WATER(ウォーター)という指文字を握りました。この時、ヘレンはすべてのものには名前があり、それが言葉であることを知ります。ヘレンはそれから数時間のあいだに三十もの新しい言葉を覚えたといいます。そして今までになかった思いやりの心が芽生えてきます。
 人間の生命の源である「水」と外部の脳といわれる「手」、そして人間だけが使うことの出来る「言葉」。ヘレン・ケラーの脳に一体何が起こったのでしょうか。現代の脳科学のスキームによれば以下のようになると考えられます。
 まず、脳の最深部にある大脳基底核が生命維持と直結する水によって刺激され、次に水を飲みたいという欲求が脳の中間層である大脳辺線系を動かし、手という実際的な筋肉の活動と言葉の知識といった活動が、脳の一番外側にある大脳皮質のブローカ野を活性化し、前頭前野を中心として脳が広く賦活し始めた……。
 今もってヘレン・ケラーの脳を測定出来るわけでもなく、これはあくまで推論の域を出ません。しかしながら先達は人が生きることに関してヒントになるような事柄を有形無形を問わず我々に語り継ごうとするものです。手で文字を書きおろすということは、日常の中ではとるに足らない些細な動きに過ぎません。しかし、難解ながらそこには人間の心を育ててくれる宝の山があるはずです。ヘレン・ケラーの遺してくれた史実には、現代の教育が抱える問題を解決してくれる手がかりがあるのではないでしょうか。

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