SSブログ

知的訓練のすすめ―道具を使いこなそう(2012年12月号) [2012]

 細かい手作業をするとボケない、などという言葉を一度は聞いたことがあるでしょう。石器の変遷にも見られるように人類の進化は手作業の器用さと比例していると言われます。またよく考えて手を動かす脳の場所と、言葉を産み出す脳の場所はほぼ一致していることも最近分かってきています。
 人類は道具を使いこなしながらその知能を高め、そしてその発達した知能は手と脳の代わりをしてくれる機械を生み出します。我々現代人はこの機械文明の恩恵を十分に享受しています。
 道具と機械は一見似ているようでありながらその本質はまったく異なるものです。例えばバイオリンの名器ストラディバリウスで美しい音色を奏でようとするのなら、それなりの訓練が必要なのと同様に、優れた道具は人を選び、また育ててくれるものでもあります。逆に機械とは誰もが簡単に使いこなせるように指向することが条件であり、その機械に同じことをさせるならば、それを使いこなすための訓練が少なければ少ないほど優れた機械ということになります。つまり究極に優れた機械とは使い手を選ぶことを全くしなくなるわけです。
 現代の情報通信革命は、莫大な量の知識を居ながらにして手に入れることを可能にしました。その一方でこれをコントロールしきる知的訓練の方がおざなりになってきているようです。
 日常の中での手の細かい動きといえば、まず思いつくのが針仕事や文字を書くことでしょうが、そうでなくても料理、掃除、洗濯だって意外に細かい手作業になっているはずです。ただし、とりわけ文字を書くことに注目すれば、それは言葉、造形、リズムを伴った細かい手の動きであり、これ程脳を同時に広範囲に使う行為も他に見あたりません。文字を書く道具である筆記具にせよ、短く剛いものもあれば、長くて柔らかい毛もあります。手によって記された文字は、まるで自分の声が形になって眼前に現れているが如くその人自身に迫ってきます。文字は心の鏡だといわれるように、書をするということは手を通した自己凝視に他なりません。
 「学ぶ」ということは知識を増やすだけでなく、考える力を身につけさせることにもあります。「学ぶ」という知的訓練の場において、人を育ててくれる道具をいかに使いこなすかについてもっと多くの人が関心を寄せるべきでしょう。道具を使いこなすということは、厳しくて難しい知的訓練を必ずや楽しいものにしてくれるのですから。