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道徳教育は北風と太陽に学べ(2013年6月号) [2013]

 一八四八年夏、アメリカのニューイングランドで、脳科学史上重大な事件が起こります。鉄道の工事に従事していた当時二十五歳のフィネアス・ゲージは、岩盤を爆破する際に事故に遭い、重さ六キロ超、長さ一メートル二○センチ、直径四センチ程の鉄の棒が頬から額の上の部分を貫きます。ゲージはこのような重傷を負いながらも、事故直後から歩くこと、食べること、話すことのすべてが可能でした。
 医師の献身的な治療で、二カ月で傷は完治しましたが、事故後にゲージに大きな変化が現れます。それまで有能で職場においても、その統率力、人間性、仕事の確かさで、作業員全員の尊敬を集めていたゲージの人格が全く変わってしまったのです。当時の医師は以下のように述懐しています。「彼は人前で不謹慎なことをいつも述べていた。何かしたいという時にそれを止められるとすぐに怒った。彼はまるで可能性のないことを計画し、それを自分からすぐに止めてしまった。気まぐれな彼は大人の心に子供の知性が宿っているようであった。」ゲージの死から五年後の一八六六年、その頭蓋骨を調べた心理学者は、彼が脳のどの部分を損傷したのかを確認します。この損傷部位こそが現在我々が知るところの前頭葉です。
 「北風と太陽」はイソップの寓話として有名です。旅人の着物を脱がせるのに、北風が強く吹きつければ吹きつける程、旅人はさらに着物を重ねて着てしまいます。一方、太陽は旅人に暑い日差しを送ります。旅人はたまらなくなって着物を全部脱ぎ捨てると、近くの川に飛び込んでいきました……というお話です。学校教育においては、子供達に道徳をしっかり教えなければ、という気運が高まっています。社会でも大人のモラルの低下についての話題が新聞で目にとまらない日はありません。こうした問題は、声高に教えるなり主張すれば改善される類のものなのでしょうか。
 脳の機能と構造を考えれば、脳の前頭葉を育むことが人格形成と関わってくることは自明です。この脳の最高中枢と言われる前頭葉は、他の脳の部位の活動に指令を出す「意識」の役割も担っています。文字を書きおろす際に美しく書こうとするのなら、配字(右脳頭頂葉)字形(左脳頭頂葉)文字性(側頭葉)手の細かい動き(前頭葉)等々、実に様々な脳の部位を同時に賦活させなくてはなりません。人間の神経系の先端にある、この人が人たる所以の脳部位は、それ自体放っておいて成長するものではありません。文字を意図して美しく書こうとすること、これは世代を問わない道徳教育に他なりません。