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身体性のないコミュニケーション(2014年5月号) [2014]

 大相撲の力士が、取組直後のインタビューに答える場面。「素晴しい取組みでしたね」「あり………ぜーぜー」。「今の心境は」「えー……はーはー」。全力を振り絞って対戦した後、息があがってしまい、何を言っているのか聞きとりづらいときがあります。歌舞伎などを観ていても古典的な言葉遣いで、しかも独特の節回しで語るので、今何を話しているのかよく分からないこともあります。
 「身体論」という言葉をよく耳にするようになりました。「身体論」とは、大雑把に言えば、体を使った表現、及びそれを感受する人間の能力に関する研究のことを指します。にわかにこの「身体論」が注目されるようになったのは、身体性のない表現が増えたからでしょう。前出の力士が、絵文字付きのメールでいかに分かり易く、饒舌に勝利の言葉を表現しようとも、荒々しい息遣いと共に伝わってくる言葉の方が、受け止める側に直接訴えかける力が大きいものです。
 コミュニケーションには、必ず出し手と受け手が存在します。出し手がだれにでも分かるような平易な表現をすれば、だれでもよく理解してくれる……とはいきません。出し手は受け手のようすを窺いながら、時に変化球を投げかけるような表現で相手の注意を喚起します。一方受け手は「一体何を言っているのだろう」と頭をひねり、理解しようと努めます。双方の努力なしにはコミュニケーションは成立しえないのです。「かな書」などは何が書いてあるか分からない、という指摘を受けますが、肉筆という身体性の籠った美しい水茎の跡に、何て書いてあるのだろう、と頭をフル回転してみるのも、これも高いレベルのコミュニケーションに違いありません。
 メールなどの身体性のない文字コミュニケーションは、一体何を言わんとしているか理解しかねる時が多々あります。「ありがとう」の言葉一つをとってみても、言い方やそぶりでそのニュアンスが大きく違ってくるからです。
 身体性のないコミュニケーションは、場合によっては都合のよいこともあります。私が懸念しているのは、この仮面に覆われたコミュニケーションが、時に大きな危険につながること、それから身体性のないコミュニケーションに慣れてしまい、しかるべき時に、しかるべき表現、しかるべき感受が出来なくなってしまうのではないか、ということです。身体性のないコミュニケーションと、どう距離を置くか、また身体性のあるコミュニケーション能力を高めること、これらは今や社会人が求められる最も重要なスキルになりつつあります。どうかこれからも筆記具を手に執る時間を大切にしてください。