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ノートをとる意義(2015年6月号) [2015]

 授業や会議で、板書されたものやモニターに写しだされた文字を、ノートにメモするのではなく、最近では写真にとって記録するという手法が流行しているといいます。ノートをとらない分、先生や発表者の話を聞くことに集中出来るから、というのが主たる理由です。写真機は百年以上前からあったので、メモをとるかわりに写真で板書を撮っておくことは理論的には昔から可能であったはずです。未来の世界では、授業にノートとペンはなくなってしまうのでしょうか。
 人の行為に脳がどう働いているのかを知るため、麻酔から醒める過程を考えてみましょう。麻酔が醒めてきたら、まず「聞く」ということが出来るようになります。それから「話す」「読む」、そして最後に「書く」という行為が可能になります。「聞く」という行為は、他の言語活動と異なり、体の筋肉を「動かす」必要がありません。「話す」となると、口の筋肉の運動が加わってきます。さらに「読む」となると、視覚や文字認識が必要となってきます。最後に「書く」では、空間の構築性や、手の細かい運動も加わります。「書く」という行為は、脳の様々な領域を同時に動かす必要があるのです。
 電車の車掌さんが、指差ししながら「発車オーライ」などと発声している場面を見かけたことはありませんか。手を動かして、しゃべっているゆとりがあったら見ることのみに集中した方がよいのでは、と考えることも出来ますが、指を使って声に出すことで、確実に仕事を遂行することができます。私は冬に灯油のストーブを使っていますが、消火しないと危ないので、車掌さんのように指差し確認で「消した、よし」、外出するときも「鍵締めた、よし」とやっています。こうすると後で「あれ、どうしたっけ」ということがなくて安心です。見るだけ、聞くだけよりも記憶に残るからです。
 ノートをとるということは、記録をするという要素の外に、脳の広い範囲を賦活させて記銘するという役割もあります。ただ「聞く」だけでなく「傾聴」ともなると、よほど脳が成熟している人の技となります。便利な機械が身近に溢れる昨今だけに、文字を手で書く意義について再認識をしなければならない時節が到来していると感じています。