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左払いを制する(2018年8月号) [2018]

 書を習い始めの人が「大」の文字を書くと、ほとんどの場合、右払いよりも左払いの方が短くなります。右手で書くとき、力を抜けば右下へ線が流れていきます。左下に払おうとすれば意図的に指をコントロールしなければなりません。右払いよりも左払いの方が短くなるのはこのためです。
 左払いにも様々な表情があります。例えば「人」と書いたとしましょう。これに横画を一本加えれば「大」になるわけですが、これでは字形のバランスがとれません。「大」の場合、左払いは「人」のそれよりも、そり気味にしなくてはなりません。読めればよいというのなら「人」に「一」を加えればおしまいなのですが、習字の場合、それを突き詰めて考え、指を細かくコントロールするという学びを行います。「大」と「美」の左払いも、その長さや傾き、そり具合などが違います。考えてみて下さい。「大」と「史」、「女」と「父」、など一見同じようでも微妙に違う左払いは意外に多いものです。「多」の文字などは左払いが四本もありますが、これを美しく書けるかどうかは書の実力の基準とさえなっています。一歩進んで「原」と「成」、「企」と「金」の左払いの違いまで理解し、書き分けることが出来ればかなりの上級者です。「成」は「原」よりもほんの少しそり気味になりますし、「金」は「企」よりもやや上にふくらみ気味に払います。
 大正時代、尋常小学校で使用されていた習字の教科書には見開きで「ノメクタ」のカタカナ四文字が大書された手本がありました。国語の教科書と異なり言葉の持つ意味よりも、基本点画の書きぶりの修得を主眼としていたのでしょう。この教科書は「ノメクタ本」の異名もある程で、いかに左払いの難しさを多くの人が感じていたかが分かります。
 パソコンを使えば左払いをどう描くかなどといった頭を使う必要なく文字が完成してしまいます。パソコンも一見細かい指の動きをしているようですが、この左払いの指のコントロールから比べれば、ボタンを押す作業の連続でしかありません。人間の高次脳機能の発達は、細かい手作業の発達と並行している……ということは、文化人類学上の前提です。言語や思考を通した細かい指の運動をなすことの意味について考えることは、現在の様々な社会問題を解決する糸口になると私は考えています。