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なぜ人は手書きをするのか(2020年9月号) [2020]

「人は文字を書く動物である」(ホーマー)と言います。人類は約三十万年前には会話レベルに言葉を話していたようです。これは舌下神経管の太さ(断面積)を底部から測定したところ、この頃の人類は、四百万年前の類人猿や猿人と比べ二倍程太く、現代人並みであったことによります。舌下神経は舌の筋肉を司る運動神経であり、舌の運動神経が急に発達した直接の原因は「話す」ことにあったと考えられています。
 人類が言葉を「文字」として書き始めたのはほんの五千年前のことです。現在世界中にはおよそ三千種の言語が存在するといわれますが、文字を持つ言語は百種類程度です。現代でも文字を書くことなく生きている人もいます。
 人類が三十万年もの間、教えられれば他の動物とは異なり文字を書く能力があったのにもかかわらず文字を使わなかった理由に、私は以下の三つの点があげられると考えます。第一に、似たような行動が日常になかったという点、例えば生きるために弓矢を使っていた民族には弦楽器が発達します。「絵」も似てはいますが、言語性はありません。第二に、その日を生きるために必要ではなかったということ。狩猟、採集の暮らしを人類は何百万年も続けてきました。第三に、修得に大きな負担がかかること。会話と違い「文字」という膨大で複雑な通信コードを記憶し、構成するためには多大な時間と労力がかかります。ここでは「教育」や「教師」が大きな役割を果たします。
 十五世紀のグーテンベルクの活版印刷の出現は、手書きなど価値がないものにしてしまうと当時は考えられていましたが、現実は逆で「しっかり書けるということは、しっかり考えられるということである」(パスカル)といわれるようになります。十九世紀のタイプライターの出現も筆跡学を盛んにしています。アルファベット文化圏は漢字文化圏よりも手書きすることについて歴史的にも学んできたといえるでしょう。
 文字を書くことの、記録や伝達以外のもつ意味について今一度、立ち止まって考えてみてはいかがでしょうか。