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手本から学べること(2021年1月号) [2021]

 戦後、書道の授業で手本に似せて書くことの学びについて書写書道教育者の間で疑問が高まった時期がありました。手本とそっくりに書くことを強いる書写書道教育が戦前の型にはめる教育を想起させるとか、書は人なりと言う位だからそれを型にはめるのはよくない、といった見方です。ただ実際に手本がなければ線を何本書くのか、止める、抜く、といった文字を構成する基本的な要素が分からないことになり現実的ではありません。活字を手本としたら、それを手で書くと筆脈が通しづらく手書き向きの書体とはなりません。活字のしんにょうが「⻌」で、筆写体が「⻌」であるように明朝体活字に代表される字体は手書きの手本には不向きです。
 もちろん手書き風の教科書体という活字もあります。これにしても本来枠の中に一文字一文字を埋めていく活字なので、作品全体としてみるならば他の字との変化や調和についてまで考えて作られてはいないのです。
 例えば、半紙の中央に「十」の文字を書くとしましょう。水平な線を水平に、垂直に書くべき線を垂直に書くことの難しいことを実感します。また予定どおりの位置に書くことも意外と大変なものです。自分の手が思い通りに動いてくれないことにイライラしますが、脳は成長しています。人類の進化は手作業の発達と比例していますし、大脳皮質における手を司る領域は広範囲にわたります。基本となる点画を書くのも同じです。「はね」や「折れ」などはリズムや指の細かい運動の訓練が必要となってきます。また、「田」の文字を書くとしましょう。文字は空間を均等にして見せると読み易く、しかも明るく美しく仕上がります。この均等に区切るにせよ、空間の完成予想図を想起する他の動物には持ちえない高度な能力が必要になってきます。人間は他の動物と異なり、家を建てたり、彫像を創ったり出来ます。
 このように手本を参考として頭を鍛えます。頭を鍛えるために書をしているのではなくても、そこで鍛えられたものが再び書として現われるわけですからそれが書は人なりとなるわけです。
 手本といっても五体字類のような字典の文字を参考にすることもあるでしょう。しかし権威ある古典の文字を集めて作品とすればよいというわけでもありません。このような文字の中には極端に右肩上がりだったり、メリハリのない文字もあります。これはその古典の文章の前後の文字との兼ね合いの中で調和をとるためにあえてそうしていることがあるからです。
 手本の文字を参考にして作品を仕上げるためには自分の頭で考え調整することが不可欠です。手本の真似から始まり、自らの頭と真正面から向き合い、思考を深めていくことは型にはめる教育の対極に位置します。自在の力を期すれば手本から学べることは多いものです。会員の皆様の今年一年の益々の飛躍を祈念しております。