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手の細かい作業と脳の働き(2021年3月号) [2021]

人類が直立して二足歩行を始めたのが七百万年前、人は自由になった両手で様々な作業を行うようになります。これまで発見された最古の道具はエチオピアから出土した約二百五十万年前のもので、小石を削って角をとがらせた礫石器です。八千年前頃になると、打製石器にかわり磨製石器が使われるようになり、時代区分も旧石器時代から新石器時代へと移行します。新石器時代の幕明けと前後して農耕が始まるなど、人類史上、複雑で重要な変化が多く起こります。文字らしきものが使われ始めたのもちょうどこの頃です。人類の手作業の進化と他の動物にはない脳の高次な働きの進化は比例してきたのです。
 手書きとタイピング(パソコンで文字を打つこと)の脳の活動の違いについて我々が行った実験で、脳内の血流を測定する他に、同時に加速度センサーを用いました。このセンサーを両手の甲に貼りつけて手の三次元の動きや距離を測定します。作文などではタイピングよりも手書きの方が言語を司る領域(言語野)の血流が有意に上昇しましたが、加速度センサーでみると手書きよりもタイピングの動きの方が激しく、手の動きと脳の言語野の血流量の増減が比例していないことが分かりました。
 人類が言葉を話し始めたのはおよそ三十万年前といわれています。この頃、人類の脳には、その高次な働きの象徴ともいえる言語野の発達があったはずです。現在、言語に関する脳科学の研究においては以下の二つのことがらが前提となっています。――「言語野の発達は人類の直立と関係がある」「言語野の発達は人類の手仕事の発達と並行している」――言語野は脳の手の動きを司る領域の下方にあり、手を使うことが言語野への血流を促すと推察されます。タイピングが言語野の血流を促さないのは、それが自動化された単純な手指の運動となり易いからです。文字は言葉を形あるものとして残すという役割のみにその意義が置かれ、それを「手書きする」という脳の働きについてまだ広く知られていません。何もかもタイピングで済むような現代だからこそ筆記具を手にして文字を書くという時間を大切にして下さい。