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高次に統合された脳の機能としての手書き(2021年4月号) [2021]

 一九七○年代、フランスで興味深い実験が行われました。フランソア・シェドゥリュは麻酔から覚醒していく過程で、言語機能がどのような順番で回復していくかということを調べました。麻酔から覚めてくると、一番最初に出来るようになるのは「聞く」ことです。次に「話す」こと、もう少し覚醒してくると今度は「読む」ことが出来るようになりますが、この時点においても、いまだ「書く」ことは出来ません。最後に可能となるのが「書く」という行為です。
 「読む」「書く」「聞く」「話す」といった言語活動の中で「書く」ことだけが出来なくなる状態を医学用語で「純粋失書」と呼びます。これは脳の局所的な病変で生ずるものではなく、「書く」という行為が脳の様々な領域が関わる最も高次に統合された脳の機能であるから由に起こることとシェドゥリュは指摘しています。この実験で分かることは、軽度の注意障害でも、文字の拙劣化、字画の欠落、字画の重複、新造文字などの運動性障害、書字のためらい、統辞の障害、スペルの障害が引き起こされるということです。脳の働きの処理能力はワーキングメモリーと呼ばれます。これはコンピュータの処理能力と同じようなものと考えればよいでしょう。この実験によれば、「読む」という行為は「書く」というそれよりも小さなワーキングメモリーで済む、ということになります。脳の機能からみればタイピングで文字を打つことは「読む」ことに近く、また手の動きとしても自動化された熟知運動となり易いため、ブローカ野といった言語野を始め前頭前野の活動を抑制しがちになります。
 ご紹介した実験は、言語や脳科学の分野においては有名ですが、一般にはあまりよく知られていません。最近ベストセラーとなったアンデシュ・ハンセン著『スマホ脳』では、スティーブ・ジョブズといった世界的なIT企業のトップたちが自分の子供にスマホやタブレットを与えなかったことを紹介しています。日本の漢字かな交り文は、打つとその音を入力変換するだけで少ないワーキングメモリーで出来上がり、一方手書きすると多くのワーキングメモリーを要します。手で文字を正しく美しく書こうとすることはこれからの時代ますますその重要性を増すことになるはずです。

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