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少子高齢化社会と教育について(2010年12月号) [2010]

 今からおよそ四十年前の人口問題研究所の将来人口の推計によると、日本人の二十歳から五十九歳までの人口の四十年後の増加率は一割程と予想されていました。一方、これに対し六十歳以上の日本人は二割以上増加するとされていました。二〇一〇年現在、高齢化の現象はこの予想を超えた猛スピードで進んでいることは周知のことです。
 一九七〇年代、このような世代の構成の急激な変化を視野に入れ、稼働人口を少しでも増やそうと発足したのがシルバー人材センターです。駐輪場の管理などで知らない人がいない程の事業となりました。毛筆筆耕(封筒のあて名書き、賞状書きなどをすること)もシルバー人材センターの大切な事業の一つであり、結婚式の招待状などはここに持ち込めばだいじょうぶ、などと認知度は高まっています。本会も、毛筆筆耕の講師としてセンター発足の当初から関わってきました。そこで思うことは、筆を使いこなすという立派な技能を持ちながら、それを埋もれさせてしまっている人が多いということです。三十人程度が集まる教室には、始まった頃には硬い表情の老人然とした人達も、数日もすると生き生きし始め、服装などにもそれが表れ若返ってきます。これは講座の運営を担当する人が口を揃えて言うことです。
 核家族社会、そしてネット社会と、他者とのかかわりが希薄になりがちな当世、学友と席を並べ熱心に脳を動かすことは、シルバー人材センター事業の嬉しい副産物でもあります。教育は就労前の若い世代だけが受けるものとは限りません。残された人生の時間も子供と比べたら少ないでしょうが、それでもその活動に人生経験という味を加え、前向きに社会で活躍をすれば、これから社会に出、やがて老いていくすべての人々にどれだけ安心を与えてくれるか計り知れません。
 このシルバー人材センターの理念を夙(つと)に提唱されたのは、故東京大学総長大河内一男先生(一九〇五~八四)です。先生は「喜寿(きじゅ)(七十七歳)祝うに足らず、傘賀(さんが)(八十歳)いまだ青春」という言葉を遺しています。老いていくことが楽しくなるような、年金の額だけでは測ることの出来ない社会の豊かさの尺度に目を向けていくことが大切かと感じています。

書は中庸の芸術なり(2010年11月号) [2010]

 書は実用がそのまま芸術の域に迄昇華しうる技芸です。しかし、筆を手にして紙面に思うがままに書けば、そのすべてが芸術となるわけではありません。まるでなぐり書きか絵のような書を見せられて芸術作品だと言われても困るもので,ロールシャッハテストを受けるが如く書の鑑識眼について議論されても、行きつく先は書の真の理解とは程遠いものになることでしょう。
 「中庸」という言葉を錠として、この書の芸術性について解析をしてみましょう。例えば「幸」の文字の横画を、すべて一画目の横画の長さに揃えたとします。するとメリハリがなく凡庸な様となってしまいます。そこで、上から二本目の横画を少し長くすると、アクセントが効いた美しい文字に見えてきます。しかしこの二本目の横画だけを思いっきり長く書いたとしたら、それは一点豪華主義の、特徴は著しいものの品のないくせ字の部類に入ってしまいます。このことは建築やファッションなどにもあてはまることです。
 熟練した筆の使い手が、美しい細かい線で文字を書いているとします。それを初心者が真似すると、ただ細いだけ、になってしまうことがよくあります。熟練した筆の使い手は一見細く見える線の中にも微妙な太細をつけており、それが豊かな線の美しさにつながっています。力強い文字を書こうとするのなら、ただ力みのある線ばかりで書くのではなく、力の入れるところと抜くの落差に配慮するものです。また運筆の流れのよさを表現するなら、逆に線の流れを一端切ることが必要になります。
 書の表現の中には、長短、太細、強弱、連綿・放ち書きだけでなく、大小、疎密、潤渇、肥痩…等、無限と思われる程の相対する要素があります。これら様々な要素がそれぞれ拮抗、調和している状態に近づけつつ、しかも、それを同時進行で行うとしたら、これは高村光太郎の言うような「最後の芸術」になってしかるべきでしょう。
 書表現の学習の中では、メリハリについていないところにはアクセントをつけ、やり過ぎたら削っていくという作業の繰り返しが不可欠です。このような中庸の美を追求していくうちに、新しい美の要素を発見することがあります。そして再びその中庸を追求しつつ、それらすべてを一度に書に表現せしめれば、それは書が芸術の域に達したといって過言はありません。書の芸術性とはこのようなものかと思います。

かな書道部スタートと年間賞発表の二つの慶び(2010年10月号) [2010]

 記録的な猛暑も過ぎ去り、夏の疲れもそろそろやわらいできた頃でしょう。本号は「かな書道部」スタートと、年間賞の発表という慶事が重なりました。文化の秋まっさかりの中、力強くも前向きな事業、行事が進められますこと、会員の皆様と共にこの大きな収穫の喜びを分かち合いたく思います。
 年間賞の栄冠に輝いた方々の稽古に向う態度には、いつもながら敬意の念をやみません。各賞共それぞれ厳しい選出基準があり、そこに到達する迄には多くの時間と努力を要します。便利であればとか、なるべく楽に、という近頃の風潮にあがらい、困難を克服し、自らを律していこうという姿勢は、必ずや将来大きな財産になるに違いありません。

 かな書道部も今月から始まります。新しいことへの挑戦は、いつも何かわくわくするものです。書道の世界では「かな」と「漢字」を分けて扱うのが一般的です。実際、書家は「かな書家」と「漢字書家」に分類されます。両者は運筆のリズム、字形のとり方、書き方のルールなどすべてが異なります。しかし、それを「日本の文字を手で書く」というくくりで捉え、新しい自分なりの書を切り拓く意気込で臨めば、それは「唐様で売屋と書いて三代目」といった落首にあるような、外面を繕うことに専心し、内実を顧みない書との向き合い方と対極をなしえましょう。
 最後になりましたが、年間賞を受賞された方には改めてお祝いを申し上げます。今後も会員の皆様と力を合わせ、書と確かな形で向き合っていければと願っています。

平成二十二年度誌上展号完成を祝う(2010年9月号) [2010]

会員の自由作品が実りに集う四年に一度の誌上展号が遂に完成しました。三月の要項発表以来、それぞれが苦心を重ね作品制作なされたことと思います。出品作品を概観しますと、題材となる言葉に強い思い入れがあり、それをいかに表現すべきか悩んだ跡が感じられました。大作あり、労作あり、力作ありと観ていて飽きのこない誌上展になりましたこと喜びに絶えません。作品に付す釈文(しゃくもん)を読みながら作品を眺めれば、まるでオムニバスの映画を観賞しているかのように楽しめました。
 「書(しょ)」とは文字を手で書くことであり、その造形について学び表現するのが書道でしょう。ただ、その造形性を追求するあまりに、書の題材である文字性や文学性を高めることがおざなりになってはいけません。「書筆の道は人間万用に達する根元なり」といった、書の真の理解に通じる道を歩もうとするのなら、このような誌上展へ向けた稽古は確実にその道を進んでいるはずです。
 年内には常用漢字の文字数が一九六文字増えることになる見通しです。文字は文化の乗り物と言われます。その乗り物の大切さについての関心が高まる昨今、会員の皆様が書のある暮らしを益々享受されますよう心より祈念しております。


かな書道部設立の理念(2010年8月号) [2010]

 本会ではペン習字部、書道部、実用毛筆部に加え、今年十月より「かな書道部」を発足させます。本会の設立の理念である「身近な書に取り組み、実用の力を養いながら真の書の理解に努める」といった考え方に相照らせば、「かな書道」はその対極にあるものとすら捉えることが出来ます。「用美」を追求してきた本会が、なぜ「かな書道」に着手したのかについて説明したく思います。
 「実用」というと、実用性のある文字の形が決まっており、それを習うのが実用の書である、と私は考えていません。実用の才とは、実際の場面に則した書きぶりが出来る力量を指すものと考えています。建設会社の本社の前に掲げる大きなひのきの表札を書くのなら、太々とした楷書が書けなくてはなりません。やや親しい間隔の手紙のやりとりの表書きでは、文字の大きさ位置関係、太い細いに配慮しながら行書が活躍します。また、草書は義務教育で教えるものでなく、多くの人が読めないので実用的ではない、というわけでもないでしょう。息の長い連続した線は肉声同様その人の表情を色濃く表出するものであり、文字の記号的な意味あいをそれが補って余りあるものです。これは、例えば返事をするのに「はい」という一言でさえ、そのイントネーションのつけ方でそのニュアンスが変わってくるのと同じです。
 文字を手書きする際には、ただ美しい形の文字を並べるだけではいずれ限界に突き当たります。「交通安全ルールを守ろう」などという標語を変体がな入りでちらし書きされても、文意と書きぶりがアンバランスになります。かたや婉曲で雅な表現を駆使した和歌などには、それを演出する書きぶりを追求することが出来ます。分かり易く読める文字がイコール実用の書ではなく、様々な場面を的確に判断し、それにふさわしい書きぶりが出来る力を養うことこそが、実用の才の育むことであり、書の真の理解につながると私は考えています。
 「変体がな」を難解な布置で書きおろす「かな書道」も、外国語というわけではなく純粋な日本語です。日本語を手で書く習慣を忘れかけている日本人にとって「かな書道」への探訪は、和の心の呼び醒ます強烈な清涼剤になると確信しています

線の芸術(2010年7月号) [2010]

 江戸時代中期から後期にかけて興隆した浮世絵は遠くフランスの印象派絵画に影響を与えたと言われる程高い芸術性を持っていました。女性の黒髪の描写たるや、まるで本物か、それ以上の表現力で迫ってきます。繊細で躍動感に溢れ、それでいて力強さも兼ね備えたこの今にも動き出しそうな線に欧米の人々は刮目したに違いありません。
 絵画は言葉のない詩、書は目に見える音楽と例えられます。浮世絵に書のような線の表現という音楽性が加えられていたからこそ、欧米の絵画界にセンセーションを巻き起こしたのでしょう。
 江戸時代といえば、どのような職業に就くにせよ御家流で多くの子供たちが書を学んでいた頃のこと、浮世絵の線の素地が書によって育まれていたと言ってもおかしくはありません。
 この一本の線の表現力の豊かさと、それを描く難しさを私が初めて感じたのは大学生の頃でした。書道部の展覧会で色紙の書を出品することになっていたので、父の書いた草書体の「福」の字を真似することにしました。なぜなら文字数も少なく簡単に書けると思ったからです。しかし、実際とりかかってみると形は似ているものの、どうしても父の書いた風合いが出せないのです。これではまだ文字数の多い作品を時間をかけて書いた方がよかったと後悔するのと共に、この「書」という仕事を業とするには相当の労力を要するに違いないと、茫然としたことを記憶しています。
 線は絶対不可欠の書の表現要素に違いありません。しかし、この強敵と格闘することに気をとられ、他の表現要素を高めることを忘れてしまえば真に書をすることから遠のいてしまいます。江戸末期の僧良寛は書を能くしたことで知られています。良寛は線はもちろんのこと、その書体、書式、布置、文章の意味内容の難度においても生涯にわたりそのバランスをとりながら成長を続けています。良寛の後世に残る程の高い教養と人間性は、まさに書を真にすることに通じるものです。
 「線」これはもっとも遅くに成長する書の要素です。この晩成の成長の要素を心待ちにしながら、書の様々な要素を少しずつ高めていくことは、書を生涯の伴侶とするよい方法かと思います。

似て非なるもの(2010年6月号) [2010]

 書の世界に長く身を置いていると、作品を見れば、どの系統の先生に習ってきたのかおおよそわかるようになってきます。しかし、その系統の書風にいかにも似せて書いてはいるものの受ける印象がまったく違うものもあれば、その形が大きく異なるにもかかわらず、その師匠と同じ感興を以て迫る書があるのも事実です。
 先人の書いた古典の臨書に励んだり、師匠の手本をよく観察し、真似ることは書の上達の王道です。ただここで似せるだけに終始し、そこから何を学んでいるのかについて考えることがなければ進歩はありません。松尾芭蕉の風俗文選の中に「古人の跡をもとめず古人のもとめたる所をもとめよ」という言葉があります。古人の、いわばその死後、本人の意図と離れ一人歩きし始めた詩なり歌なり書は、後世の受け止め方次第で、いくらでもその実体を曲げられかねません。書について考えるならば、その書きぶりを真似ることに安住するよりも、その書が何を言わんとしているかを汲み取る力を養うことに労をすべきだ、ということでしょう。しかしながら、ただ真似るよりも、その意図を汲みとる方が何倍も大変であることは間違いありません。
 私の元に届く手紙の表書きを拝見すると、その筆跡を一見しただけで差出人が分かることがあります。同じ師匠について学びながら、微妙に異なった様相を呈します。このようすは実力が高くなればなる程顕著になってきます。
 世間では、書道ブームなどと言われています。自分の思いのままの書をすることは大変結構だとは思いますが、そんな自称書家の方からのあて名書きをいただいたら、筆使いは乱雑、行も曲がり、配字も隅に寄っていたりします。書道興って悪筆世に満つとはよく言ったもので、多くの人が書を筆の遊びだと誤解したままでいないようにしなくてはなりません。不景気になると書道が興こるといわれます。書道が、低廉な出資で始められる趣味であること、殺伐とした世相の中で心のやすらぎを得られることなどがその理由に挙げられます。書を始めてみようとする人が増えている昨今、その期待を裏切らず、真に書をすることに通じた稽古の場を提供できるよう私も尽力するつもりです。

漢字の○×(2010年5月号) [2010]

 その字種の多さと字形の複雑さが世界の文字の中で突出している漢字。 文字の「パーツ」を横に並べ揃えるだけで「語」が出来てしまうアルファベットと比べれば、その習得には際限がないと思われる程。書きとりテストとなれば、それぞれの点画のつける、はなす、止める、はねる、抜く、突き出る、接する、短い、長い、角度…等々点画の書きぶりに逐一細心の注意を払わなくてはなりません。点画の書き方の違いによって他の意味の文字になってしまうとしたら、その文字の持つ記号の役割が果たせなくなってしまうわけで×にされるのはいたし方ありません。ただしあまりに厳格すぎる○×は、その運用に支障をきたすため一般に「許容」が認められています。
 しかし、問題になるのは、この許容をどこまで認めるか個人差があるということです。ある高校入試向けの書きとりのテストの中では、許容と認めるか認めないかで採点者によって全問正解か全問不正解か分かれるなどという極端な結果が出たことさえあります。
 書道では、同じ文字が二度三度出て来たら少しでよいから違った書きぶりをする方がよいとされます。それは話す時に微妙なイントネーションの変化をつけることが言葉に表情を加えることとなり、より豊かなコミュニケーションを図ることが出来るようになるのと同じです。漢字の○×をクリアし、受験にも有利ということになれば、書きぶりのバラエティーや表現力の豊かさを追求するよりも、とりあえず標準とされる字形を金科玉条のごとく一点一画覚えた方がよいと多くの人は考えるでしょう。されど、この方法は記憶力を養い、試すにはもってこいですが、これがすべてでないことも忘れてはなりません。また投げやりに書いた雑な文字を許容として○にすべきだということでもありません。
 企業が欲しい人材の能力の一位に、「コミュニケーション能力」が挙げられています。対して「語学力」は挙げられず、人事担当者によれば「日本語をまともに使える学生が少なすぎる」とのこと。何を伝えるかと同時にどう伝えるか。何を言われたかと同時に何を言わんとしているかを感受する能力をどう養うかについて考えるとしたら、漢字の○×の視点も変ってくることでしょう。

書作の三要件(2010年4月号) [2010]

今年の「実り」九月号において四年に一度の誌上展が開催されます。日頃の研鑽の標とし、ぜひともご参加ください。私も過去の誌上展を見返すと、今より若いその頃の自分が何と向き合い何を考えてきたのか明らかになり、気恥ずかしくもまた再び前進していかねばというエネルギーが充填されてきます。書をして自らを表現せしめるという行いは、歴史上の文人墨客でさえ一筋縄ではなしえなかったこと。しかしながら、それに挑戦することは必ずや書をする時間を実り豊かなものとしていきます。
 さりとて、作品化するためにはどうしたものかと悩む方も多いことでしょう。そんな方のために大まかに書作の要件をお話したいと思います。
 お習字を始めるきっかけは、まず文字を美しく書きたいから、という動機が多いもの。ただ作品化するためには、しかるべき「題材」を見つけなくてはなりません。言葉の響きや意味あいは作品の大切な要素です。美しく、しかも言葉を吟味したら、今度は紙や墨を選びます。この美しさ(字形、配字、書体、字体、崩しぶり)と文字性(言葉や詩、文章の意味内容、音韻等)と用具、材料(何を使って書くか―えんぴつ、ペン、筆、何に書くか―紙の種類、木やプラスチック、金属等、墨はどうするか―自分で墨を磨るか、墨汁か、はたまた塗料もある)の三要件について考えてみるとよいでしょう。
 ここまでお話すると、何か大変な作業に思えてくるかもしれませんが、こう考えてみて下さい。文字をどう書くかについて悩んでいたら、その労力を文字の意味内容に少し移してみる。またその題材に行き詰まっていたら、用具、材料のことに考えを振り向けてみる、といった具合に。すると心なしか肩に力の少し抜けた安定感のある作品が出来るものです。
 書作を成功させるためには、以上の三要件のバランスをうまくとることが大切です。ひとつ一歩前に踏み出すことが、日々の貴重な時間をより充実したものに変えてくれるということもあるもの。四年に一度のこの好機をぜひご活用ください。

子供の習い事における書道の位置(2010年3月号) [2010]

 一昔前は子供の習い事といえば、書道かそろばん、ピアノ位しかなかったといわれ
ますが、今では英語のみならず、フランス語、中国語、それにお料理、アクションス
クール等々、子供達にとってはそれこそ恵まれた選択肢があります。此度も出版社が
子供向けのお稽古ガイドブックを作るということで、書道とは何たるかについて訊か
れました。ここは書道をアピールしなければ、と考え以下のように「書」の教育上の
特質についてまとめて述べたところです。一、まず指を細かく動かす。これは体育だ。
二、言葉を素材とする。これは国語だ。三、造形感覚を養う。これは美術だ。四、文
字造形だけならレタリングでもよいので、筆順や書くときのリズム性が必要になる。
これは音楽だ。
 かつて書道を習わせる第一の理由は、社会に出て、書類を書くときに速く読み易い
文字が書けるように、というものがありました。もちろん、これは現在も大きな理由
ですが、パソコンで文字を打つのが主流。自分のメモが読めさえすれば構わないとい
う意見さえあります。この二十年を振り返るに、「書」がその実用の面がことさら強
調されなくなったために、逆に手で文字を書く意義が真剣に考えられるようになった
気がします。
 子供の英才教育にと、色々な早期教育が考えられていますが、こうすれば必ずこう
した分野の天才が育つ、という定石があるわけではありません。よかれとして行った
早期教育が、反対にその若芽を摘んでしまう可能性もあると聞かされれば何もするこ
とが出来なくなってしまいます。
 お習字のユニークな面は年齢が上がるにつれ、それに応じた課題が用意されている
という点にあります。脳科学の分野では、ある能力を獲得する限界の年齢を臨界期と
呼んでいますが、何百年も続いている書道のカリキュラムは、こうした臨界期をよく
ふまえて作られており、現代科学を学ぶほどに書道とは実に伝統のある確かな習い事
だと感心してしまいます。そういえば私も子供のころ沢山の習い事をさせられました。
今思い出せば、それらの稽古事を通して色々な人と出会えるのが楽しみだったように
覚えています。子供の稽古は、どの道であれ、社会に積極的に参加していこうという
第一歩です。その第一歩を父兄や指導者は暖かく見守ってあげることが大切でしょう。
子供の稽古としての書道の位置についても、その役割は増々重要になってくるものと
思います。

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