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改定常用漢字をどう手書きするか―その(2)(2011年12月号) [2011]

明朝体の活字体で示されている改定常用漢字をざっと見てみると、日頃はあまり書くことのないような漢字の部分があることに気がつきます。例えば彙、●、●などです。これを手書きする際には●(上がヨ)、餌(左下が点)、遡(しんにょうの点を一つ)とすべきだと私は考えます。これは辺、北、などと活字で書かれていても手書きでは普通、(しんにょうの形)、(左側のたて画が下につき出ていない)と書くのと同じです。
 活字で示された文字をそのまま手書きすればよいではないか、活字体の形と手書きの形の違いを逐一覚える位なら他の学習に時間と労力をふり向けるべきではないか、という意見ももちろんあるでしょう。それでは「…へ行く」という時には「え」と発音するのに「へ」と書くし、「…は…である」という時も「わ」と発音します。小学校に入りたての子供が教科書を読み上げる際にこれを文字通りに発音して、先生から直されるということがよくあります。現代かな使いでは、話し言葉と書き言葉が一致するようになっていますが、言文一致にこだわり過ぎれば今度は逆に文章が読みづらくなってしまいます。
 このことと同じく、読み文字と書き文字にも少しずれがあった方が自然なのではないでしょうか。前掲の「辺」と「北」の文字の活字体と手書き文字を比べてみて下さい。活字体の方が明るく大きく見えます。文字を組むのに区切られる白い部分をなるべく均等に、また手書きと違い右上がりや中心へのまとまりを抑え、パッと見ただけで認識しやすいようにデザインされています。それに比べ手書きは少しつぶれて暗く見えます。しかし手で書いてみると運筆のリズムがとり易く、書き手の表情がよく現れてきます。
 今回の改定常用漢字は、中学校で、しかも読めればよいだけの文字として扱われるとの事です。ただし今後従来の常用漢字と混在し、手で書くとどのような形にすべきかを定めなくてはならなくなってくるはずです。
 「へ→え」「は→わ」を引用するまでもなく、言葉や文字は生き物です。活字と手書きのそれぞれの役割を知り、それを使い分けていくことは、豊かな言葉を育むことに通じています。改定常用漢字をどう手書きするかについて多くの人が疑問を持って考えていけば、本当の意味で漢字が日本の財産となってくるに違いありません。


 改定常用漢字をどう手書きするか―その(1)(2011年11月号) [2011]

 当用漢字一八五〇文字が作られたのは戦後間もない昭和二十一年のこと。戦前からあった漢字使用の制限論に加え、GHQの日本の文字改造論、さらに日本の文字文化を守ろうとする考えが錯綜する中で、まさに戦後の混乱のさなかに生まれました。当用漢字は日本の言葉のすべてを、この一八五〇文字で表しきろうという制限色の強いものでした。
 日常使用する漢字の範囲を定められた当用漢字に対し、昭和五十六年、現代国語を書き表す場合の漢字使用の目安を示すものとして作られたのが常用漢字一九四五文字です。字数の増加は常用漢字に新しく九十五文字が加えられたからです。
 そして此度、平成二十二年に作られた改定常用漢字は、昭和二十一年の当用漢字、昭和五十六年の常用漢字に続く、漢字使用における三十年に一度の大改革となるわけです。常用漢字から勺・錘・銑・脹・匁の文字が削除され、新しく一九六文字が加わることによって二一三六文字が改定常用漢字となりました。この増加の背景には、パソコンで文字を打っても読むことが出来なければ社会生活上困るので、日常よく目にする漢字を示さなければならなくなった、というところです。ですから、この中学生で学ぶべき追加された一九六文字は書けなくてもよいから読めればよい文字とされています。この改定常用漢字の作成に携わった先生によれば、例えば「鬱」などという文字に読めればよいので必ずしも手で書くことを想定してはいないとのこと。また、入試にこの文字の書き取りを出題などしたら、その学校の見識が疑われるぞ、と読めればよいということを強調しています。
 しかしながら実際に学校の現場では教師は、読めればよいだけの文字も板書して示す必要があります。改定常用漢字の文字を、どのような筆順で、どのような手書き文字で示すかを決めなくてはなりません。これらを政府が決めてくれれば議論する余地はないのでしょうが、政府は一般の社会生活における漢字使用の目安を定めるにとどまり、学校教育における、いわば教科書体等の字体については学校の方で決めてほしいとの立場をとっています。この改定常用漢字をいかに手書きするかについては次回に続きを述べていきたいと思います。

書は一日にして成らず(2011年10月号) [2011]

 十月の声を聞くと、秋たけなわを感ぜずにはいられません。本号は年間賞の発表の月です。一年、中には十年の精進が実り、今回の受賞となった方もおられることでしょう。この「実り」も今年で四〇〇号を迎えました。記念すべき節目の年に名誉ある賞に輝かれた方々には心よりお祝い申し上げます。
 書というものは、ボタンを押せば機械が文字を出してくれるものとは違い、指の細かい動きやリズム感、造形感覚や字形に対する認識等様々な要素がからみ合って表現、鑑賞されるものです。書は、まさに心の中を描き出す絵でしょう。この意図的に、しかも長期に亘る修練、学習によって得られる人の脳の力は「読み書きの出来る高次な人の能力」に他なりません。
 受賞された方々は、このような坂に車を押すような厳しい修業を、例えば自分なりのルールを作って少しずつでも続けるようにしたり、教室の雰囲気を、多くは語らずとも和気あいあいとさせ、書と楽しくつきあえるようにしたりしています。自らに鞭を打ち向上させていく姿勢は、科学の力で何でも解決出来そうな時代にあって、その人のみならず必ずや社会にも大きな光明を与える事と思います。
 四〇〇号記念の節目の年、会員の皆様が本会の歴史に新しい一ページを加えられましたこと嬉しく思います。今後皆様と共に益々発展していけることを祈念しています。

書とお茶(2011年9月号) [2011]

お茶を飲むことを「一服」するなどといい、ひと休みすることに使います。世界中の大学のまわりにはカフェや喫茶店があり、酷使し、ヒートアップした脳にしばしの寛ぎを与えます。我が国ではこの一服するにも作法があり、それは「茶道」といわれるものにまで昇華しています。
 お茶が本邦に伝来したのは明確には分かっていませんが、奈良時代の初期、聖武天皇の頃、遣唐使などを通じて唐からもたらされてたようです。この唐風の喫茶法は、もともと漢詩文を伴う文人趣味として愛好されたものでした。この頃から既に書と茶とは一体不可分の間柄にあったわけです。現在の茶席でも書の掛軸はなくてはならないものであり、亭主が会記を筆でしたためるなど、両者は密接に関連しています。
 この書とお茶の間柄を脳と書道の研究者として、私なりに解釈してみました。書をするということ、言いかえれば読み書きをするということは頭を強いて使う作業です。しかしフル回転で使い続ければしまいにはオーバーヒートし、エンジンが故障してしまいかねません。そのためには時にはブレーキをかけ、エンジンを休ませてあげることも必要です。脳を酷使する人ほどお茶の仕方にこだわるのはこのあたりのバランスのとり方によるものでしょう。寺子教訓之書(一七九一)にも以下のようなくだりがあります。「無精もののくせとして、或は居ねむり、筆の管をくわえ、高わらい、障子を破り、柱をけがし、壁をくずし、たびたび湯茶を好み……。」要約すると「勉学に励む場としてよろしくない行為には、居ねむり、筆管を口にくわえること、障子を破ること、柱を傷つけ壁を壊し、たびたびお茶をすること……」ということになります。脳を育む場としての寺子屋で、お茶ばかりすることは好ましいことではない、と言っています。現代では常に脳をクールダウンしていないといられないペットボトル症候群なども問題となってきており、書と茶の役割について脳科学的にも検証すべき時期が来ているように思います。
 車はアクセルだけでも、ブレーキだけでも用をなしません。人の脳をうまく動かすにしても、このアクセルとブレーキのコントロールの妙が大切なのは言うまでもありません。

個展を了えて(2011年8月号) [2011]

六日間に亘って開催した私の個展も去る七月三日に無事終了することが出来ました。三年の準備期間を振り返り、また大勢の方にご覧いただき、今は安堵の気持で一杯です。
 初めての個展ということで、作品制作はそれこそ無からの出発でした。この「実り」の課題にあるように、楷、行、草、篆、隷、ペン字、古典かな臨書、古典漢字臨書と、学書のほぼすべての分野に取り組み、作品化してみたことに気付かれた会員の方も多いと思います。今習っている教材の延長線上に、美しく表装を施された書作品があるのだということが分かれば日頃の稽古にもさらに熱が入ることでしょう。
 個展の会期中は、ご来場になった方々と書について語る機会を得られたことが何より嬉しく、今回の個展の大きな収穫となりました。使用する筆やその扱い方から制作の期間や執筆法、はたまた題材の選び方まで様々なやりとりをする中で、皆様が書に対する認識を深めていかれたこと、そして同時に私自身が作品制作の過程をしっかりと再確認することが出来ました。小さなお子さんも声に出して作品を読み、ご家族の方々と共に書の空間を楽しまれていかれたこと、何よりであったかと思います。
 長い間個展を目標に過ごしていたため、今はやや緊張の糸が伸びぎみのようで、そろそろエンジンをかけなければと考えています。読もうとしてそのままにしてある厚い書物の類いに手をつけたり、仕事場の模様がえしたり、脳と書道の研究を進めたいと思っています。私にとってはこの個展が書家人生のよい節目となったようで、これからは新しいスタートを切るつもりで元気よく邁進していくつもりです。
 書作品を通して何らかを表現するということは気恥ずかしくも大きな労力と創造性を要する修業かと思います。それだけにそれをやり遂げた後、自分に何か力強いもの残る感覚が貴重です。来年は予定どおりに運べば四年に一度の東京書芸展が開かれます。今から創作の構想を練り始めても決して早すぎることはありません。今度は皆様の作品を拝見出来ますこと楽しみにしています。


集中する力を高める(2011年7月号) [2011]

 子供にお習字を習わせている保護者のお話を伺うと、字を上手に書けるようにさせたい、と同じ位、集中力や落ちついて物事に取り組む姿勢を身につけさせたいという気持があるようです。
 私が教室で指導をしていると、やや多字数の課題になると終りの方で文字が乱れてくる成人の生徒さんがいました。最後まで気を抜かずに集中力を持続させて書くようにとコメントをすると、私は集中力がなくて、との事。そこで私が、集中力をつけるのもお習字をする目的の一つでしょうと返すと、しばし目をしばたたかせてから、何を言うのかと思ったら、目からうろこですよ、と表情を輝かせていました。
 長年指導をしていると、かける言葉が素通りしているな、と感じる時もあれば、何気ない一言が大きな励みになることもあるようで、この生徒さんの文字の質がその後大きく変わったことは言うまでもありません。
 文字を美しく書くことが出来なくても、実社会においてはワープロ、パソコンといった便利な機械があり、「手書き」の出番は減ってきているようです。学校を卒業して社会に出ると既にその人格と能力は完成していて成長することはない、ということはありえません。大人が子供の教育に熱心になるのと同じ位、自分の成長の可能性に汗すれば、子供に対する忠言も重みを増してくるでしょう。
 春の昇段試験が終わるこの時期、受験した全員が一様に成長しているようすが窺われます。画面に向かってボタンを押せば何でも楽に手に入る昨今、注意深く指を動かし、合格という目標を目指して頭を働かせることは、その人の智叡となって生涯離れない能力となるに違いありません。聞いただけ、知っただけの知識・能力と、労多くして得た力との間には、それを獲得する過程において違いがあるだけ脳にどう根付くかといった点で差が出てくるはずです。
 節電の折柄、時にはパソコンの電源を落とし電気のいらない書字活動にいそしむのも時流に適うようで、暑中見舞の葉書きを書いて涼を贈るのもよいでしょう。盛夏のみぎり、皆様の益々のご発展を祈念しております。

初個展の開催にあたり(2011年6月号) [2011]

来たる六月二十八日(火)~七月三日(日)の六日間、東京銀座の鳩居堂で私の初の個展を開催します。そろそろ個展でも開かなくてはいけないかな、と思っていたところ、ちょうどタイミングよく推薦のお声をかけていただき、かような立派な画廊で個展を開けることになったのが三年程前のことでした。
 生来旅行に出かける時などは、期待と気合の分だけ荷物の多くなる性分で、やはり準備段階からオーバーヒート気味であったこと否めません。十丁型の大型固形墨が二本楽に磨ることの出来る、まるで工作機械のような墨磨り機を購入したり、古墨と言われるややプレミアムのつく固形墨を集めたり、印も篆刻作家と相談しながら三十顆程新調しました。もちろん筆や紙なども色々と吟味し選んでいったことはいうまでもありません。それらを整理したり並べ替えたり試し書きをして一人悦に入っていると、またたく間に時が経ち、個展の期日が迫ってきます。周囲からそろそろ個展ですね、と言われると胃が痛くなるものでした。
 個展の成否は作家の経歴や評価に直接結びつくだけに、それこそ逃げも隠れも出来ない正念場です。しかしながらいざ筆を執り書き始めてみると、難敵なれど組みすに心地よく、今の私にとっては負うべきプレッシャーかと、このチャンスを与えていただいたことに本当に感謝しています。この個展に向けた作品制作を通して文房四宝(筆・紙・墨・硯)やその他諸々の書に関する道具の知識を得られたことが大きな収穫でした。紙墨相発(あいはっ)すとはいいますが、紙と墨の相性によって実に多様な表現が可能であること。その他、受け売りではなく実体験としての書表現の可能性について学べたこと。これらがこれからの書作品の制作や指導の深みにつながることと確心しています。
 震災後、銀座はしばらくの間節電の為、明かりを大きく落としていました。そこは花の銀座とは思えない程不気味に暗く、日本はこれから一体どうなるのだろうかと思わせるかのようでした。最近ではその銀座にも人通りが増え始め少しずつ活気が戻ってきています。会員の皆様にはぜひ私の個展にお運びください。皆様の明るい笑顔が銀座の街に灯りをともすことを願っております。

「実り」四〇〇号を迎えこれからを展望する(2011年5月号) [2011]

 このたびの東日本大震災において、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げますと共に、被災された皆様、そのご家族の方々に心よりお見舞い申し上げます。該当地域の会員の皆様には心安らかに筆を執るひとときが一日も早く回復されますよう祈念しております。
 表題にもありますように「実り」が四〇〇号を迎えました。教育や芸術に関する叢書の休刊や廃刊の多い世相を鑒みるに、一月も休まず発行し続けられましたこと、会員の皆様に厚く御礼申し上げます。
 一口に四〇〇号と言っても、それはそれこそ毎日、毎月、毎年の繰り返し、積み重ねであり、まさに一歩一歩の歩みだったと思います。前進こそ、継続の力とばかりに、新しいことへ挑戦する心を忘れずに、また改善すべきは省みて糺し、書に関する研究と事業の推進をなしてきました。この五〇ページ程の薄い体裁の「実り」には、このような厚い歴史の層が積み重ねられています。
 この四〇〇号を振り返り記述をすれば際限のない程の分量になることでしょう。今は五年、十年先を見据えて行動しなくてはならない時かと思います。科学技術が人々の生活を豊かにしている一方で、人間の智恵を凌駕するような事象も起こり続けています。新しい薬のおかげで一つ不治の病が撲滅されたとしても、さらに新しい病気が人を苦しめ、また万全の備えをしていても、それを越える災害が絶対に起こりえないとは言いきれません。どんなに科学が進歩しても、おもいやりといった心の豊かさがそれと比例して進歩するわけではなく、便利さや豊かさとどうつき合っていくかについて考えていかなくてはならない時代が眼前に到来しています。
 本会と、この「実り」が、今後世の人の役に立てるような存在であり続けるためにも、この「手で文字を書く」という所業が、人の心にとってどのような作用を促すのかについて深く掘り下げていかなくてはならないと思っています。会員の皆様と共に輝く未来を目指し、五〇〇号、六〇〇号と歩んでいくことを楽しみにしています。

書の古典に学ぶ(2011年4月号) [2011]

書の古典といえば、本書の3ページに掲載されている顔真書の多宝塔碑であったり7ページの伝紀貫之書の高野切のことを指します。文学の世界において論語や、古今和歌集が古典に位置づけられるのと同様、古典とはその分野における動かされざる典範を指します。例えば唐の時代の三大家(逐良、虞世南、欧陽詢)の書いた文字は現在でも字体を決定する根拠となっています。文学の古典同様、長い年月を経て今を以てなお高い鑑識眼に耐え続けられる理由を考えるのなら、それを生み出した時代背景について知らなくてはなりません。古典の作り手が生きた時代には必ずや人間の潜在能力を引き出し、新しいものを生み出して是とする風潮がありました。古典に学ぶということはそんな創造性溢れる人間の心に触れるような行いであり、学書において重要な科目の一つとなっています。
 書においては古典の古典たる要件があります。まず毛先の一本にまで神経を集中させ細部迄配慮して筆力強く書かれていること。またそれと同時に全体の調和も図られていることです。一見無骨に書かれているような書きぶりの古典でも臨書をしてみると実に細かい筆使いがなされていることがわかります。全体の調和という視点から見れば太い文字があったら今度は細い文字、密な部分があったら疎の部分がありと一本調子ではありません。古典はその部分と全体の両面から言葉を豊かに表現しきっているのです。
 皆さんがお稽古している中で、一点一画は上手に書けたが、全体の配字がうまくいかなかったり、また逆のことがあったりした経験はないですか。細部にも留意しつつ、同時に全体の調和にも考えをめぐらすまでになるためには多く練習を積まなくてはなりません。ただし呪文を唱えるが如く古典を写していれば古典の持つ芸術性をそのまま手に入れられるわけではありません。古人の跡をもとめず、古人のもとめたる所をもとめよ(芭蕉)とはよく言ったものです。
 「古典」、この創造性溢れる人間の心を感じ、それを得ようとするのなら古典への盲従はかえって逆効果になるでしょう。古典を生み出した時代の人々と同じように、新しいものを生み出して是とする環境の中で、部分と同時に全体の完成度を高め、それにふさわしい言葉を表現しきること。古典に学ぶということはこういうことではないのでしょうか。

手書き、ワープロ、日本語、英語(2011年3月号) [2011]

 漢字で花の「バラ」という文字を書いて下さい、と言われたとします。そんなの簡単だよとスラスラ書ける人はそう多くないでしょう。一方これをワープロで打つとします。「ハ→゛→ラ」又はローマ字入力で「B→A→R→A」を変換して候補の中から選び出します。すると今度はほとんどの人が「薔薇」と〝書ける〟わけです。これを英語に置き換えてみましょう。「バラ」という言葉を書く場合、あれ、LOSEだったかROSEだったか、はたまたROZEだったかといった綴り方が問題になってきます。これはワープロ打ちにしても日本語のように解決するわけではありません。ROSEと書けば「薔薇」になりますが、LOSEにすれば「失う」になってしまいます。
 日本語で「薔薇」を書くことの何と難しいことか。一方ワープロ入力の簡単なこと。他方、英語でROSEと書くことは日本語のそれより容易ですが、ワープロ入力にしたからといってさほど簡単にはなりません。日本語ワープロは英文のそれより百年遅れて実用化されたわけで、これが実現したのは高度なコンピュータ技術のおかげです。日本人は手で日本語を書く煩わしさから解放される一方で、日々手で文字を書いて脳を鍛えるということから遠ざかりがちになりました。二十年前だったら、ペン字や書道を習う成人男性といえば就職前の大学生か、退職後の時間にゆとりがある人が主流でした。しかし最近では働き盛りのビジネスマンが週末を利用して習字に励んでいる風景がよく見られます。手書きをほとんど必要としないビジネス社会において、この状況に危機感を覚えているのでしょうか、稽古する姿勢を拝見すると、背筋をピンと伸ばし、りりしく書と向き合っています。こうした生徒さんに調子を尋ねると、おしなべて精神状態が安定しているとのこと。皆さん今流行の鬱とは縁遠いようです。
 明治維新の頃、この東洋の小国にやって来た英米の知識人たちは、その能力、熱意、勤勉さ、創造力に驚き、「日本人は東洋のイギリス人」という言葉を残していきました。働き盛りを含む三六〇万人ともいわれる人々の引き込もり、今や九百兆円を超えると言われる国家債務の累積。「文化のないところに経済的繁栄はない」と言います。「文字」を書く文化を見直すことが、日本経済再生の為に不可欠と考えています。

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