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古事記上巻并(あわせて)序(じょ)を書き了えて(2011年2月号) [2011]

 年末、年始のまとまった時間を活用して個展用にと古事記上巻并序の全文およそ九百余字を書いてみました。この古事記の序文には以前より興味があり一度全文を書いてみたいと思っていました。古事記は現存する我が国最古の歴史書として知らない人のいない程の古典となっていますが、ほぼ同時期に日本書紀という歴史書が編まれていたり、下巻ともなると叙述が簡略化され中途半端に終わっており、古事記の成立には謎に包まれています。
 せっかく作品として書くのだからと改めて古事記関連の書物にあたってみると日本文学史のみならず、文体、表記法、政治思想等実に様々な知識の大波が襲来し、我が無知を悟るばかりとなりました。それでも古事記の何たるかの輪郭がおぼろげにでも掴めてきて書くべき作品のイメージが出来上がってくるものです。
 作品の製作には第一に書式を決定しなくてはなりません。全紙に縦何文字、横何文字でどの位の字粒で書けば美しく収まるかを考えます。久々に数式を書いて配字を計算し、その上で実際に試し書きを繰り返しながら、書式の微調整を行ないます。落款も文字数に含まれるので、それをどう記すかについては落款の表記法の知識が必要になってきます。そして次は文字調べです。信用のおける活字体の出典を元に、活字体と筆記体の違いを修正したり、本字、旧字等の統一を行ないます。もちろん美しく書くためには書体についても考察を加えなくてはなりません。あとは誤記のないよう集中力を持続させ、全体と部分の調和によく留意しながら細部まで注意を払いひたすら書きます。無事書き了えれば最後に印と印泥色選びです。
こうして作品の構想から完成に至る迄の過程を振り返ると、しばしば芸術に必要とされる「感性」は、「書」に関していえば、必要条件ではあるが十分条件ではないことが分かります。逆にいえば「書」を芸術の域にまで昇華させることは並大抵のことではかなわないことになります。しかしこの強敵と正面から向き合うことを避けた途端、道から外れることを忘れてはなりません。書の難解さは、言い換えれば奥深さであり、広さでもあります。自戒を込めつつ、他山の石として会員の皆様が書と向き合う姿勢について考える一助となればと思い、古事記の序を書き了えた雑感を述べさせていただきました。



新しき年を迎えて(2011年1月号) [2011]

 平成二十三年の幕明けです。昨年は、かな書道部の設立、誌上展の開催、開明墨汁工場の見学など様々な事業を行うことが出来ました。また、この実りの発行を始め表彰式などの年中行事も無事終えることが出来ましたこと、会員各位に深く御礼申し上げます。
 今年、私は六月二十八日(火)~七月三日(日)迄、東京銀座の鳩居堂で個展を開催する予定です。初めての個展ということで、日頃の研鑽を披露する大切な機会と捉え、目下作品の制作に鋭意取り組んでいます。この個展に取り組むという仕事は、私にとって新しく刺激的な作業です。
 「ころがる石には苔はつかない」(A rolling stone gathers no moss.)という西洋の諺(ことわざ)があります。また一方で本邦には国家にも歌われているように「……さざれ石(いし)の巌(いわお)となりて苔のむすまで」(小石が成長して大きな岩となって、それに苔がはえるまで)という相反するような言葉もあります。この二つの言葉は東洋と西洋の価値観の違いとして引用されることもありますが、実は言っていることは同じなのではないかと思います。私も、常に清新で活動的であるように心がけてはいるものの、いつの間にか心に苔(こけ)、悪い意味で言えば錆が出ていることもあるでしょう。石の上にも三年とがんばっていたことが、実はいつの間にかそこに安住しきり、頭が固くなっているということもあります。心に錆が出ないように磨きをかけつつ、同じことを続ける忍耐力を持つことの大切さに洋の東西はありません。
 ただし、何を続けるべきかそうでないか、新しいこととは一体何かについて、当の本人に判断のつけようがない場合がしばしばあるものです。そんな時には信用のおける隣人の助言を仰ぎ、それに耳を傾けることが大切です。自分の美しい苔や、古びた錆は自分からは見えにくいものだからです。
 「筆硯佳友(ひっけんかゆう)を得る」という言葉があります。筆硯、すなわちお習字をするとよい仲間、隣人を得られるという言葉です。皆様が今年、よき隣人に恵まれ、健康で豊かな一年を送られますこと祈念し、年始のあいさつとさせていただきます。