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新聞を読む意義(2015年12月号) [2015]

 新聞にも電子版というものが出現し、最新の情報を手軽に提供してくれるようになりました。朝・夕二回程配達される紙の新聞の存在意義は一体どこにあるのでしょうか。
 新聞を読む意義は、雑多な情報を整理してくれている点がまず挙げられますが、これ以外の重要な点に、新聞を読む際の脳の働きがあります。
 文字が読めれば、本も新聞も読めるはずだ、と普通は考えるでしょう。脳の右半球頭頂葉が疾患などによってその機能が失われると、本を読む際に一行読み終わったあとに、次に左右のどちらの行に移って読んでいったらよいか、次のページに移ったときに、今のページとの関連性が分からなくなったりします。これが新聞を読むとなると、さらに難しくなります。新聞は、大きな紙面の中に、一番大切な記事は右上に、二番目の記事は、その左に、三番目は下といった「位置に対しての意味付け」という要素があります。また、次にどこに文がつながっていくか、というような、視空間認識が複雑です。紙の新聞は、その広い紙面から情報を得ること自体が、脳の右半球の頭頂葉の活動を促しながらの情報取得となります。朝、学校や職場に出かける前に紙の新聞を読むことは、脳の右半球を含んだ広い範囲の脳の活動を促す「朝の脳の準備体操」になるわけです。
 新聞が社会的に信頼度の高いメディアである理由には、購読者層が広く脳を使い、健全な判断、思考をする傾向にある、ということが挙げられるのです。これらの事柄は、「書く」ことにも通じます。例えば、葉書きにあて名書きをする際に、相手の名前は中央に大きく、自分の名前は左下に小さめに、といった書き方をします。これも新聞同様、位置や大きさに対して意味付けを行っているのです。
 大量の情報の送受が、科学技術の発展によって可能になってきています。一方で、その情報を処理、咀嚼する脳を育むことに、多くの人は無関心です。紙の新聞を読み、文字を手書きすることは、決して古めかしいことではなく、便利な情報通信機器を使いこなすためにも積極的に摂り入れるべき生活習慣であるはずです。

便利な機械を使いこなす(2015年11月号) [2015]

 先頃OECD(経済協力開発機構)は、加盟三十一の国と地域に在住する十五歳を対象に「PISA」(OECDが二〇〇〇年から三年ごとに実施している学習到達度調査)デジタル能力調査を初めて行いました。これによれば、学校内外でデジタル機器を利用する時間が長すぎると、かえってデジタル機器を使いこなす、読解力、数的リテラシーなどの力がなくなる、という結論を出したそうです。デジタル機器との距離のおき方についての世界的な議論に、一石を投じる形となりました。
 道具というものは、使えば使う程、習熟するものですが、機械は、そうではないようです。私も、デジタル機器をよく使う方々と出掛けた折、駅の自動券売機で、皆が特急券を買えずにフリーズしていたのを覚えています。結局、その券売機で特急券を買えたのは、いつもあまり機械を使わない私だけで、あとの方は、窓口に行って買っていました。
 国勢調査の回答では、東京都のインターネットを利用した回答率が他県と比べて著しく低い(東京都二六・〇%、滋賀県四八・四%)ことが話題となりました。日本の最先端の文化と科学技術を誇るべき首都東京の、この便利な機械の使用率の低さは、世間から意外と受け止められたようです。先のPISAの調査からすれば、機械を使いすぎて、逆に使いこなしきれなくなってきているのかもしれません。
 手で文字を書くと、相手が読みづらく、機械を利用すれば、誰もが読み易い文字を楽々作成してくれるのですから、これを使わない手はありません。しかし、これでは書き手は手書きする生活習慣がなくなりますし、読み手も何て書いてあるのだろう、とその筆跡に含まれる感情の起伏も含めて、頭をひねって読み解こう、という余地が失われてしまいます。
 人類が文字を獲得し、便利さを追求し、それがある豊かさを実現してきたことは確かです。しかし今、便利であることが豊かさと同義でなくなってきている気がしてなりません。便利さとの距離を考え、機械に使われるのではなく、機械を上手に使いこなす脳を育てる学びが必要な時代がやってきています。その学びとは書に他ならないのです。

書に親しむ(2015年10月号) [2015]

 秋麗のみぎり、会員の皆様におかれては益々ご壮健のことと存じます。今年も年間賞の発表の時節が到来しました。地道な努力を重ね、書の道を実り豊かに歩まれている方々に対し、心より敬意を表したいと思います。
 表彰される方のようすを伺うと、受験勉強の最中にも習字の時間を捻出したり、仕事や介護で疲れている中でも書と親しんでいます。書をすることが欠くべからざる生活の一部となっています。書をなすことは、パネルにタッチして文字が出来上がってしまうのとは異なり、「止め」「はね」「払い」といった指の細かい動き一つとってみても面倒なものです。それに加え、配字や運筆のリズム感まで先を考えて書かなくてはいけないわけで、楽な方に傾き易いのが人情です。しかしながら、楽な方に進めば必ずしも楽になるとは限りません。日本語という、手書きすると世界で最も難しく、パネルにタッチすると逆に最も楽な部類の言語において、書を能くすることは貴いことに違いないはずです。
 手書きは、前頭前野を中心に、脳の広い範囲を同時に賦活させるため、落ちつきのある心や、学習する力を養います。多忙でも心豊かな毎日を送ることが出来るのは、書を真摯に向き合う生活習慣を身につけているからでしょう。
 書に親しむことが、世間の合理性と相容れぬような昨今、皆様のような姿勢が、結局は社会の豊かさをもたらすということをぜひ自信をもって伝えていって下さい。書に親しむには絶好の季節です。皆様のさらなるご発展を心より祈念しております。

普段の字を上手にするには(2015年9月号) [2015]

 習字の稽古を始めてしばらくして、手本を見て書けばある程度書ける、といった位上達したとします。それでも普段の字は、もとに戻ってしまう、という声をよく聞きます。
 この「実り」では、まずは、手本を参考に、まっすぐ、まとまりよく、まちがいなく、といった三つの「ま」に留意して練習します。書体、書式の難度を徐々に上げていきながら、ある一定のレベルに達すると、「自運」という、手本のない課題に挑戦することになります。この「自運」は、活字で提示された課題を手書き文字に直し、配字、字粒などを自分の頭で考えて書き上げなくてはなりません。手本がないからといって勝手に書いてよいというわけではなく、大きすぎ、小さすぎ、長すぎ、短すぎ、太すぎ、細すぎ、逆にこれらのメリハリをつけなさすぎの「すぎ」に気をつけながら、前出の三つの「ま」を守ります。
 このように、段々と少しずつ難しい課題に取り組んでいくことによって、確かな実力が身につくよう、この「実り」は作られています。しかしながら、この「実り」の課題をこなすだけで、おしまいにしてはいけません。「実り」には、実用の「実」と「成果を実らせる」の「実」二つの意味が込められています。身についた力を実際の場面で生かすことが出来てこそ、この「実り」で学ぶ意義があるのです。
 自分で考えた言葉を書くことを「自発書字」と言います。脳は大別すると三層に出来ていて、最深部の脳幹は、人の生命を維持する機能を、中間の大脳辺縁系は、感情や欲求を産出する機能を、一番外側の大脳皮質は、言語、判断、注意、学習、抑制など、人間らしい高次な機能を司ります。大脳辺縁系から沸き上がる思いを、大脳皮質の言語化機能で文字にするのが「自発書字」です。「自運」よりも、言葉自体を自分で産み出さなくてはならないのですから、さらに広く脳を使い、難度も上がります。
 灯火親しむの候、これから書をするに最も適した季節がやってきます。日頃、培った書の力量を、自分の言葉に乗せて書き綴ってみてください。普段の字の上達は、こうした書の生活習慣から少しずつ会得されていくものです。

書と料理の共通点(2015年8月号) [2015]

 書と料理は、日常実用的でありながら、共に芸術まで昇華しうる人の営みです。書は食べられませんし、白黒の表現を主とします。一方、料理には言語性はなく、色彩にも重きを置きます。
 書は、まずその「形」に目が行きがちです。しかし「形」は書の一要素に過ぎません。例えば、漢字の書き取りでは、つける離す、はねる止める、出る出ないで、○×が変わってくることもあります。それこそ、ひらがなの「な」の字の下の丸く結ぶところを楕円に書くか、三角のおむすび型にするかまで、教科書の形とそっくりに書かないと、○がもらえないということもあるそうです。
 しかし、書においては、そうはいきません。標準の形で書かれていたとしても、それが小さかったり、隅に寄っていたりすれば、改善の対象となります。字粒、配字以外にも点画の書きぶり、運筆のリズム、筆力など様々な要素が「書」にはあります。「形」は、脳において、まず認識し易い要素であるため、そこに注意が向けられがちですが、書においては、その他の多くの要素と、いかに兼善をなすかが、大切になってきます。例えば、履歴書の名前が教科書と寸分違わない形で書かれていても、配字はバラバラだったり、筆圧がコントロールされていなかったり、かなくぎ文字であったりしたら、見る人はその書きぶりから何らかの情報を得ることになります。
 料理はどうでしょうか。塩味だけが前面に出ている料理、油がきつすぎる料理など、ある一つの要素が突出しすぎれば、他の甘み、うまみなどの要素が埋没してしまいます。料理においては、味だけでなく、色彩も重要な要素ですから、これも赤だけ、緑だけ、ではなくそれらのコントラストの調整が必要になってきます。書でも、「形」一つをとってみても、長短だけ、とか太細だけ、が目立っては他の要素が埋没してしまいます。また「形」だけが突出して他の要素が埋没してしまえば、例えば、醤油味だけが前面に出ているスープになってしまいかねません。
 書は白と黒のみで表現されますが、肉筆のイントネーション性や言語性という要素は、色彩に覆われてしまう程、デリケートであるということです。料理と異なり、口にするわけではありませんが、豊かな書生活を送る為には、様々な要素があることを知り、それらのバランスをどうとるかについて考えていくことが必要です。

実り”四百五十号の節目にあたり(2015年7月号) [2015]

 「実り」が四百五十号を迎えました。昭和五十三年一月一日の発行以来、一号も欠かすことなく発行出来ましたこと、諸先生方、事務局の職員、会員の皆様、また関係各位に厚く御礼を申し上げます。
 四百五十号を記念して、何かイベントをしてみようと話が持ち上がり、「親子で書道」を行うことになりました。「親子で書道」と銘打った理由は、親子間の情誼が希薄化する中で、何か書道が出来ることはないのか、という発想がきっかけです。家庭という、最も安心出来るべき場での殺伐とした事件がよくニュースになる昨今です。親と子が、共に脳に汗をし、互いに尊重しあえる豊かな心を育むのも、書の役割であると私は考えています。
 最近では、テレビなどでも、電子機器で文字を打つときには、脳はあまり働かないけれども、手書きすると、活発に動き始める、といった映像が流れるようになりました。恥とか、思いやり、といった他の動物にはない高等な感情を人間は持っています。しかし、この感情は放っておいては成長するものではありません。こうした高等感情を司る脳の領域は、前頭前野と呼ばれる額の最前部、心臓から遠いところにあります。そこまで血流を送り、脳を動かすためには、やはり脳を活発に動かす必要があります。このような心の働きは知識として伝えるのではなく、その領域の活動を促すことが大切です。
 格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下、という言葉は、中国の古典「大学」に見られる言葉です。「大学」の内容は「政治の最終目的は、治国平天下にあるが、これを実現するためには、まず家を斉え、身を修めなければならない。身を修めるためには、心を正しく意を誠にしなければならない。この正心誠意を身につけるためには格物致知、すなわち物の道理をきわめ、学文を修得しなければならない」というものです。古今「書は心画なり」といわれます。まさに書は脳の中身を描き出す絵です。その書と向き合うことは、厳しい学文の修業に違いありません。
 四年後には、大きな節目、五百号を迎えることになります。会員の皆様の書への取り組みが、治国平天下へとつながることを祈念し、これからも弛まず共に進んでいきましょう。

ノートをとる意義(2015年6月号) [2015]

 授業や会議で、板書されたものやモニターに写しだされた文字を、ノートにメモするのではなく、最近では写真にとって記録するという手法が流行しているといいます。ノートをとらない分、先生や発表者の話を聞くことに集中出来るから、というのが主たる理由です。写真機は百年以上前からあったので、メモをとるかわりに写真で板書を撮っておくことは理論的には昔から可能であったはずです。未来の世界では、授業にノートとペンはなくなってしまうのでしょうか。
 人の行為に脳がどう働いているのかを知るため、麻酔から醒める過程を考えてみましょう。麻酔が醒めてきたら、まず「聞く」ということが出来るようになります。それから「話す」「読む」、そして最後に「書く」という行為が可能になります。「聞く」という行為は、他の言語活動と異なり、体の筋肉を「動かす」必要がありません。「話す」となると、口の筋肉の運動が加わってきます。さらに「読む」となると、視覚や文字認識が必要となってきます。最後に「書く」では、空間の構築性や、手の細かい運動も加わります。「書く」という行為は、脳の様々な領域を同時に動かす必要があるのです。
 電車の車掌さんが、指差ししながら「発車オーライ」などと発声している場面を見かけたことはありませんか。手を動かして、しゃべっているゆとりがあったら見ることのみに集中した方がよいのでは、と考えることも出来ますが、指を使って声に出すことで、確実に仕事を遂行することができます。私は冬に灯油のストーブを使っていますが、消火しないと危ないので、車掌さんのように指差し確認で「消した、よし」、外出するときも「鍵締めた、よし」とやっています。こうすると後で「あれ、どうしたっけ」ということがなくて安心です。見るだけ、聞くだけよりも記憶に残るからです。
 ノートをとるということは、記録をするという要素の外に、脳の広い範囲を賦活させて記銘するという役割もあります。ただ「聞く」だけでなく「傾聴」ともなると、よほど脳が成熟している人の技となります。便利な機械が身近に溢れる昨今だけに、文字を手で書く意義について再認識をしなければならない時節が到来していると感じています。

就活で高まる手書きの重要性(2015年4月号) [2015]

 就活が解禁され、着慣れないリクルートスーツ姿で街を歩く学生をよく見かけるようになりました。最近では、履歴書やエントリーシートの書き方を指導するのも私の役割となってきていて、今の学生が、いかに手書きしなければならない状況に置かれているかを、私の方が逆に学ばさせていただいています。
 学生生活で力を注いだことや、自己PR、趣味・特技、志望理由を所定の枠内に書かなくてはなりません。この枠が実に小さく、言いたいことを全て書いたら虫メガネでも見えないようになってしまうし、大きく読み易い文字で書いたとしたら、言い尽くせない、といった微妙な大きさです。採用担当者は多くのエントリーシートに目を通すことになるのですから長過ぎたり、短か過ぎたりしてはいけないのでしょう。だからこのサイズになるのかとは思いますが、見本を書く私でも体裁よく、美しく書くとなると高い集中力とそれなりの時間を要します。
 大きな企業ともなると数千からもっと多くの応募があるそうで、採用する側からすれば丁寧で読み易く、配字感覚も良い方が好印象となるでしょう。応募する側も、それなりに読む側の立場になって書くべきです。それにしても学業が本分の学生にとって、これは大きな負担といわざるをえません。
 パソコンを使えば、応募する企業ごとに部分的に文字を変えてプリントアウトすれば短時間で多くのエントリーシートを作成することが出来ます。これをメールで送信すれば、何百もの企業にエントリーすることが可能になります。しかし、これは採用する側にとっては数打てば当たるの対象にされかねず、また、学生のその企業への就職意欲を図りかねる事態となります。就職した後も結局はミスマッチであったということにならないよう、最近ではパソコンでエントリーシートを送付してくると、自筆で書いてくるようにと指導されることがあると聞きます。就活生は限られた時間の中で意中の企業を絞り、心を込めてエントリーシートを書きます。企業側は真摯な姿勢で、その肉筆からその人となりを感じとろうとします。
 生活のすべてで手書きがあたり前だった私が就職する頃、エントリーシートなるものはありませんでした。手書きする機会が少なくなったとよく言われる昨今、思わぬところで手書きの重要性が高まっていることに時代を感じています。

人工知能は人間の脳を超えるか(2015年3月号) [2015]

 一九九七年、チェスの世界チャンピオンのカスパロフが、IBMの開発したチェス・コンピューター「ディープ・ブルー」に敗れ、「人工知能の勝利」として世界に広く報道されました。以来、しばしば、チェスや将棋のプロと、コンピューターとの対戦がなされてきており、勝負を競っています。コンピューターは、人の知能を凌駕するか、といった命題は、SFの世界の話から、既に身近な現象となりつつあります。人間の頭脳が人工知能に常に敗れるようになったら、人間は人工知能の指示で暮らしていく方が賢明なのでしょうか。
 人間の脳と、人工知能との大きな違いに、ハードウェアでの「可塑性」というものがあります。「可塑性」とは、およそ粘土のように、自らが順応、成長していくことの出来る能力のことを指します。電卓を購入して、使い込んでいるうちに、それがパソコンになり、ついにはスーパーコンピューターになっていた、などということのないのが、人工知能の本質です。人間の脳は、教養や経験によって、それ自身が変質、成長していくことが出来ます。子供が学校に行くのはそのためです。
 もし人工知能が「人間のような」可塑性を持っていたらどうでしょう。人工知能のチェスの腕前が上がると共に、その人工知能の「恥」とか「思いやり」「志」といった高等感情も、人間と同じように成長したとします。この人工知能の使い手としては、その扱いに甚だ難儀すること間違いないでしょう。人工知能が「自我」に目覚め、待遇の改善を要求し、その使い手の生活や生命を脅かすようなら、使い手は、その人工知能のスイッチをオフにしなくてはなりません。人間の場合、そうするわけにはいきません。育まれた「人間性」が社会の一員として調和していくように、ある優れた能力と共に、脳の高等感情の所在である前頭前野の機能も高めていかなくてはならないのです。
 スポーツの世界では、ドーピングは禁止されています。肉体の厳しい鍛錬が脳の成長へとつながり、スポーツマンシップとなることが体育に他なりません。座学にせよ、知識の羅列のみでなく、それを創造性や社会性を伴う知叡と昇華させ徳育となすべきです。頭脳労働に従事している人が、高い志と、モラルを持ち得て活動していると安心なのですが、昨今はそうでもないようです。この人工知能との距離のとり方について、我々は、関心を持ち、対策を急ぐべきだと思います。

漢字文化圏の書教育(2015年2月号) [2015]

 今年、中国では学校教育において書道が必修化されます。パソコン、スマホの普及で、漢字を正確に書けない子供が増えているという報告が相次ぐ中の改定です。一番慌てているのが、日本の書道用品を扱う業者です。新たに三千万人ともいわれる書道用品の需要は、特に毛筆の原料となる獣毛の供給を圧迫します。結果、原料の争奪戦が起こり、商品の高騰を招いています。獣毛の輸入を中国に頼っている我が国にとっては、原材料が入手出来ないという事態になりかねないのです。獣毛に代わるものとして、ナイロンの筆を使ったらどうか、という案も浮上しています。従来よりナイロン製の筆は、工業製品を作る過程を中心に使われてきました。これを「書」の場面で使うこともありますが、どうもツルツル、スベスベして墨の含みが悪く、また腰の強さも単調で、よいリズムで線を描けません。もともと獣毛には「毛鱗」という魚の鱗のようなギザギザがあり、そこに墨が微妙にからまって、適度に墨を吐き出していくものです。ですから、ナイロン筆にも、人工的な毛鱗をつけて、天然の毛筆と遜色のないナイロン筆を使おう、という動きも見られます。しかしながら、本物からのみ得られる手や脳への感覚は、人工の筆からは期待出来ないことでしょう。
 韓国も、漢字文化圏に入ります。ハングル文字で、ほぼ用は足りるのですが、高等教育では漢字の学習や毛筆の習字に力を入れています。私が学会などで韓国に出かけると、会場に手書きの毛筆で、立て看板や会次第が立派に掲示されているのを見かけます。また、学校において、生徒に反省を促す際には、毛筆の習字を課す、ということも行われており、これも効果を挙げているといいます。韓国は、世界に先駆けて多額の投資をICT教育に向けましたが、その結論は「高コスト、低効果」ということで、早々と、それからの撤退を進め、ITの普及を制御する政策に着手しています。
 一方、日本はどうでしょうか。習字よりも、英語に重きを置くべきという風潮も感じられなくありません。「手で文字を書く」という作業は、脳の研究をしていると、脳を大きく育む行為に他ならないと知ります。高度な語学力を獲得するためにも、まずその学力の基礎体力を養うことを怠らないことが、教育において重要です。日本の国力の低下を叫ばれて久しくなりますが、こんな時だからこそ焦らず、足元を見直すことが大切でしょう。

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