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アナログへの回帰(2018年2月号) [2018]

 新年早々、家族で大きな文具店めぐりをしてきました。多くの若年層が楽しそうに文具の品定めをしており、大変な賑わいぶりでした。求める文具にもこだわりがあるようで、シャープペンシルの芯の太さや、消しゴムの消え方のレベルなど、様々な角度から観察しているようすが印象的でした。
 最近は、クラシックモデルとして売り出された高価なシャープペンシルが飛ぶように売れていると聞きます。私の普段使いの硬筆は、ほとんどが万年筆かえんぴつで、シャープペンシルの世界には少々疎いのですが、それはそれでアナログ的な価値があるのでしょう。今年いただいた年賀状を拝見して、二十歳未満の若年層に、あて名書きを含め手書き率が高かったようでした。デジタルネイティブと呼ばれる世代にして、かくありきかと感じた次第です。
 二〇一二年六月二十七日、ヨーロッパで最大の発行部数を誇るドイツの新聞『ビルド』紙が前代未聞の手書きの第一面を発行し、手で書く技術を軽視してはならないと警告しています。「手書きの機会が減り、脳が退化する」とし、「手書きの復興」を呼びかけたのです。イギリスの研究では、成人のうち三人に一人は半年間一度も手書き文字を書いたことがなく、平均すれば四十一日間も文字を手書きしていないという調査結果も同紙は報告しています。
 アメリカでは二年以上、電子書籍の販売が減り続けており、一方、紙の本の売り上げが回復しているそうです。この理由には、タブレット端末を長時間使うことによる「デジタル疲れ」があるといわれています。
 子供達の学習のようすを伝える通信簿が、いつの頃からかパソコンで打たれてあたり前となってきました。一方で、通信簿の先生からの所見の欄は必ず手書きするとしている学校もあるそうです。
 文化人類学の学問領域では、人類の進化は手作業の高次化と比例していることが前提となっています。ボタンやパネルばかりの生活を送る人が増える時代、これをどう捉え、解決していくか、人類は文明の大きな岐路にさしかかっていることに気づくべきでしょう。

書画琴碁詩酒花(2019年1月号) [2018]

 あけましておめでとうございます。昨年中は会員の皆様と共に平素の教室、行事等を無事行えましたこと御礼申し上げます。今年は四年に一度の誌上展の開催の年でもあります。日頃の稽古の成果を形に残すよい機会です。皆さまの参加を心よりお待ちしています。
 冒頭の言葉「書画琴碁詩酒花」は、古来文人墨客が友として楽しむ七つの事柄を指したものです。新春の雰囲気にも合う雅な言葉です。脳科学的な視点からみれば、「画」は視覚野を、「琴」は聴覚野を、「詩」は言語野を通して脳に刺激を与えます。「碁」などの勝負にかかわるゲーム的要素のある活動は、前頭前野の一部が活発に動き始めることが分かっています。また「酒」を飲むと大脳皮質の「抑制」「判断」「注意」……などといった人間の高次な機能は低下しますが、そのかわり、それに抑えられていた大脳辺縁系といった人間の本能的な部分が顔を出してきます。人間は大脳皮質だけで生きているわけではないのですから、人間の脳活動の源ともなる脳の領域の活動を促してみるのも大切なのかもしれません。李白を始め、歴史的にも活発な言語活動をなした文人に、酒豪が多かったのはこのせいでしょうか。「花」は造型的な美しさはもとより時節の移ろいを感じさせ、その香りも様々です。空間、時間、臭覚等、様々な感覚を同時に刺激します。そして「書」は詩のもつ言語性を始め、画や花が持つ造型性、琴にあるリズム性も以て脳の活動を促しています。
 脳は、様々な領域がそれぞれの役割を果たしながら協調して機能します。領域の境界は異種感覚心象間の転換が行われるとも言われ、例えば「黄色い声」などといった色と音の異種の感覚が連結します。人が脳の様々な領域どうしのつながりを深めるためにも先に述べたような様々な経験を積むことの意義があるのです。こうした脳の配置は人間が決めたことではないし、もし人工知能を、より人間に近いものにするとしたら、これを模さなくてはならないでしょうし、そもそもその必要はないでしょう。
 世界はIT技術を通して様々な情報を手に入れられるようになってきています。しかしながら書画琴碁詩酒花を楽しみきれる脳が育まれているとは言い難いようです。手指の微細な感覚や、花自体から発せられる香りは実体験からしか得ることは出来ないからです。シリコンバレーの先駆者たちの少なからずが、その子弟を経験を重視したシュタイナー教育で育てていると聞きます。便利すぎる機械に囲まれていればいるほど身体を通したリアルな経験の大切さが分かってくるのかもしれません。
 世はさらに利便性、合理性を追求する道を突き進んでいます。これも行き過ぎて依存しきれば人間の能力は低くなり、機械に逆に使われるようになってしまいかねません。問題は、機械に極度に依存する未来の社会が、どう機械を使いこなすべきか考えることのできる人間自身の脳機能を維持し続けられるかということにあると思います。人間の知能と人工知能の競争はあと十数年でその臨界期を迎えることでしょう。本会の活動がその備えの一助となれば幸いです。