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印を使いこなす(2022年12月号) [2022]

書の作品を仕上げるのに印は重要な役割を果たします。一般には、自らの名を書いたらその下に落款印を押し、作品の制作者を明らかにします。白と黒のみの世界の中に朱色が入ることにより、美的なアクセントが加わります。印の用い方次第で、作品の出来映えも大きく変わってくるとさえいえます。
 落款印には姓名印と雅号印の二顆を押すのが通例です。姓名印には普通白文印(文字が白くなる印)を、雅号印には朱文印(文字が朱になる印)を使います。白文印は、重量感のある威厳にあふれた作りが特徴です。白文印は、秦、漢の時代には、官位や権利、所有を表すものとして盛んに用いられました。日本で発見された金印(漢委奴国王)も白文印です。秦や漢の時代に白文印が制度的に使われた理由に、この頃はまだ紙ではなく、布や木片、竹などが文書を記す材料とされていたことがあるのではないかと思います。表面がきれいな平面ではないため、白文印の方が押印に適していたと考えられるからです。
 私も押印する際、白文印はやわらかい印褥(印を押す時に下に引く台)を使いますが、朱文印の場合は線がきれいに出なかったり、印の谷の部分が紙面に写り込んでしまうことがあるため、ガラス板に薄い紙を一、二枚乗せて押しています。朱文印は白文印とは異なり繊細な表現が特徴です。風雅さを重んじる文墨の世界では、雅号印は朱文印を用いることが一般的です。正統で格式の高い姓名印を上に押し、文墨の世界の住人である証として朱文印をその下に押すことは理に適っているといえます。
 書作品の掲載された書籍や図録などを眺めていると印の使い方で作品の見方が違ってくることがあります。ただし、印はどちらかというと作品の脇役的な存在で、その印影を印刷された書面で細部まで鑑賞することは難しいものです。そのため私は博物館や展覧会で作品を見る際には印のようすをよく観察するようにしています。その押し方、色あいまでが実物からは感じとれるからです。印に対する知識は、書の力量と書をする愉しみを増やしてくれること間違いないでしょう。

言葉を書くということ(2022年11月号) [2022]


 文字を書く時と、絵を描く時の脳の活動の違いを調べた興味深い実験があります。これは脳の活動を測定するNIRSという機械を用いたものです。まず、線画で描かれた絵のカードを次々と提示して被験者はその形を写していきます。そして今度は、はさみや紙、えんぴつなどの絵のカードを次々と提示し、その絵が何であるか文字で書いていきます。そして再び線画で描かれた絵のカードに戻り、これを繰り返していきます。NIRSの計測によれば、線画を描いている時は主に脳の右半球が活動し、文字を書いている時は、脳の右半球に加え、言語を司る左半球も同時に活動を始めるという結果が得られました。手で文字を書く際には脳の中で使用しない領域がないと思われる程だ、と指摘する脳科学者もいます。
 文字には形と読みと意味の三つの要件があります。絵を描くのと比べ、文字には読みや意味といった要素が加わってくるため、脳はより広い領域を同時に使用せざるを得なくなります。高村光太郎(一八八三~一九五六)は、詩人であり彫刻家でもあります。光太郎は、その著書『書の深淵―最後の書論―』の中で「書をみるのはたのしい。画は見飽きることもあるが、書はいくら見ていてもあきない。またいくどくり返してみてもそのたびに新しく感ずる。」と述べています。文字は本来、言葉を表す記号であり、その記号に絵画的な要素が加わり過ぎれば、書としての価値は相対的に低くなることでしょう。絵画には文字記号の制約がなく、造形的な価値を追及することが出来ます。
 展覧会に出かけたりすると、草書体や変体がな、難解な漢字で書かれた作品が展示されています。そんな作品の読みと意味も知りたくなるものです。書作品には釈文という文章が付けられることがあります。これは作品を言葉として理解、鑑賞することを手助けしてくれる説明書きです。展覧会などでは、多くの作品を歩きながら見ていくため、この釈文は一息で読める位の長さが適当です。この釈文のつけ方次第で作品の表現も大きく変わるとさえ言えるでしょう。
 光太郎は「書はやっぱり最後の芸術だな」とも述べています。この奥深き書の道を皆さんどう歩まれるか、来春の展覧会が今から楽しみです。

学ぶ意欲(2022年10月号) [2022]

 何かを学ぼう、修得しようとすれば、相応の気力、体力が必要です。学校では様々な教科があり、成績がついたりしてこれも動機づけとなります。受験では、国語、数学、理科、社会が課されることが多いのですが、書道の実技はあまりお目にかかりません。受験科目であれば、当人のキャリア形成のためですからモチベーションは上がることでしょう。書道の実技は点数化することが難しいのです。上手に書けることイコール前頭葉の発達ではなく、上手に書けるように頭をひねること自体が書を能くすることであり、それは脳の器をなし、他の教科を修得する際の意欲ともなって現われてくるものです。
 ―――私はよく、どうしてこんなに書くこと(もちろん手書きのことだ)が好きなのだろうと自分自身に問いかける。知的な作業にはたいてい空しさがつきまとう。ところが目の前に(日曜大工の作業台みたいに)美しい紙と良いペンが置かれているのを見ると、嬉しくなって、その空しさを忘れてしまうことがよくあるのだ。―――これはフランスの言語学者ロラン・バルト(一九一五~一九八○)の言葉です。
 手書きと、パソコンでタイピングして文字を書くのとを比べると、手書きの方が前頭葉の活動が活発になります。前頭葉は計画、思考、推論、注意、抑制、情操、創造、学習、意欲といった人間らしい高次元の内容を処理する働きが集中しています。よく考え、手で文字を書くことは、何かを学ぼうとする際の、とってもお得な方法といえるのです。
 今月号では年間賞が発表されています。受賞された方々は日々の稽古に意欲的に取り組んでおり、きっと書の場面以外でも、素晴しい活躍をされていることに違いないでしょう。書を学ぶ意義をしっかりと体得され、これからも益々、書を享受されることを祈念しております。

和様と唐様(2022年9月号) [2022]

 一般に和様とは日本風のものを、唐様は中国風のものを指します。書の世界にも和様と唐様があります。「売り家と唐様で書く三代目」の川柳の書のことです。
 三筆といわれる嵯峨天皇、空海、橘逸勢の頃は当時、最先端を行く唐の文化の摂取に努めました。空海や橘逸勢は遣唐使船に乗り唐の都へ留学しています。当時の手本として仰がれていたのは王羲之の書です。逸勢の書などは王羲之と大変良く似ています。唐様の書は、例えば王羲之の十七帖にあるように草書でも、紙面に喰い込むかのようにピリッと一点一画がシャープに描かれています。三筆の書にはこうした様式が色濃く反映されています。
 和様の創始者は小野道風というのが定説です。道風は藤原佐理、藤原行成と並び三跡と称される能書家です。三筆の頃よりも時代が下り、海外の文化を自国風に消化していったのでしょう。和様は唐様と比べ軟らかく、ゆったりとした書きぶりです。なぜこのようになったかについては、仮名との交ぜ書きが挙げられています。私なりに考えれば、漢字を表意文字としてだけ使用してきた中国にとって、文字はそれ一つ一つが独立して意味をなすものであり、一方、日本の場合、万葉仮名の出現が示すように、これを音としても使います。「山」を「也末」と書くことによって日本の言葉を文字として表します。この時、「山」という一つの意味をなすのに、これを一つ一つ区切るように書くよりも、なるべく一つのまとまりとして書きたくなるものではないかということです。
 この推察の是非はさておいて、この和様の書は江戸時代、寺子屋といった庶民の教育の場において主流となります。人々の多くは暮らしの中で普通この和様を以て文字を書きます。唐様の書はというと、儒者や文人といった知識層の中で尊重されていました。前出の川柳は、遊芸で身を持ちくずした三代目が、かっこうをつけて書いたということで、江戸時代における唐様の位置を物語っています。
 明治の頃になると、習字の教科書は唐様の書へと変わっていきます。維新以降、列強諸国に追いつけという風潮の中、日本的なものが敬遠され、書の教育はアルファベットというわけにはいかないわけで唐様となったわけです。こうした歴史的な視点から書を考えてみるのも面白いものです。

東京書藝展に参加しよう(2022年8月) [2022]

 コロナ禍で延期となっていた本会主催の東京書藝展(令和五年四月五日・水~九日・日)の要項が本号と共に配布されました。既に作品の完成予想図が出来上がっているような方もいれば、まだ出品するかどうかも決めていない方もいらっしゃることでしょう。作品の提出期限は来年の二月で、まだかなり時間的なゆとりがあります。日々の稽古や月々の課題、各種試験に取り組むかたわら、ぜひ展覧会への出品作品の制作にも挑戦してみて下さい。
 発表を目指して作品を創り上げていく作業は、日頃の練習とはまた違った視点を与えてくれるもので、書の豊かさ、楽しさを理解する契機ともなります。会場となる東京池袋の東京芸術劇場は広々として高い天井の空間があり、長条幅などの大作も引き立ちます。細字作品もお勧めです。細かい文字を最後まで丁寧に書ききることは集中力と忍耐力が必要です。細字作品への注目度は高く、観覧者は自分を書く身に置きかえて感嘆します。また、書は造形性やリズム性を伴う言葉の芸術です。題材とした言葉をいかに表現するかによって、その言葉の伝わり方が大きく異なってきます。書式や書体を先に決めるのもよし、書いてみたい言葉探しから作品制作を始めるのもまたよしです。
 学生部(幼年~中学生)については規定課題となります。一生のつきあいとなる手書き文字です。書は大変深い奥行きのある人の行為であり、まず、その型を身につけることは今後の発展のためにも必要です。自在の力を得るためにも格に入ることは大切です。学生部は一般部とは異なり褒賞の制度があります。受賞を目指して全力を尽くして下さい。そうすれば書の道のみならず様々な場面で活躍するチャンスが増えることでしょう。保護者の方もお子さんの成長や努力ぶりを実際に会場で目にし、記念として作品を残しておくことが出来る機会です。ぜひ参加をお待ちしております。
 今は夏真盛り。来春の展覧会の事ですが、出品の期限迄はあと六カ月余りです。会員の皆様の作品にお目にかかれることを今から心より楽しみにしております。

同音の漢字による書きかえ(2022年7月号) [2022]

 「手帖」と「手帳」、「衣裳」と「衣装」、「遺蹟」と「遺跡」。どちらが正しいのでしょうか。これは実はどちらでもよいです。それでは、なぜこのような複数の書き方が存在するのでしょうか。
 戦後、GHQは日本の国語改革を推し進めました。その報告書には以下のような一節があります。「現在の日本文字の如く、暇のかかる表現と通信の手段を弄するといった贅沢なことをなし得る近代国家が一つでもあろうか。われわれは日本文字の徹底的改良が必要だと考える。日本文字は学習上恐るべき障碍をなし語学や数学、自然科学や社会科学の学習に振り向ける時間が初等教育の間、日本文字を学びあげるために失われる。」として、GHQは日本の文字のローマ字化をも提案したが、日本側の抵抗もあり漢字かな交じりの日本語は守られることとなりました。
 ただ、五万ともいわれる漢字のすべてを日常普通に用いることは一般の生活の上でも負担となるため、昭和二十一年、一八五〇文字の当用漢字が制定されました。この当用漢字は日本の文字をこの漢字ですべて表そう、という制限色の濃いもので、例えば「拳」の文字は当用漢字に含まれないため「けん銃」と表記するなどしました。昭和三十一年には、国語審議会が当用漢字の使用を円滑にするため、当用漢字以外の漢字を含んで構成されている漢語を処理する方法の一つとして、当用漢字の中の同音の文字で置き換えることを示しています。それが冒頭の例です。ちなみに前にある方が本来の漢字であり、後の方が書きかえによるものです。ですからどちらでも正しいことになるわけですが、何が違うのか、といったことを知っておくことは書を学ぶ者にとっては必須です。この書きかえの一覧には「破摧」「蹈襲」「耕耘機」などの書きかえ例なども示されています。これはそれぞれ「破砕」「踏襲」「耕運機」ですが、このあたりになると書きかえの方が当たり前となり、本来の漢字はほとんど見かけない程となっています。
 書をすることは文字を美しく、また豊かに表現することにありますが、それと同時に文字に対する理解を深めていくことも大切にしなくてはなりません。

六年ぶりの東京書藝展(2022年6月号) [2022]

 四年に一度の東京書藝展が、令和五年四月五日(水)~九日(日)の五日間、池袋の東京芸術劇場で開催されます。本来なら令和二年の秋に行う予定でしたが、コロナ禍のため延期となっていました。
 本会が主催するこの東京書藝展が四年に一回の開催であるのには理由があります。展覧会書道盛んなりし昭和の中頃、実用に根ざした書を見直そうとしたのが本会の設立の理念の一つでもあります。この「実り」の″実”にもこの思いが託されています。展覧会の出品製作に追われ、本来書を通して涵養すべきことがらがおろそかにならぬよう、四年に一度という期間を置いての開催となったわけです。ただし、この間には、四年に一度の誌上展があります。つまり二年に一度、作品として発表する機会があるということです。
 書を学ぶは、まさに自己を厳しく律する修行そのものです。これによって育まれる人の能力については平素私が述べているとおりです。書の学びによって獲得された人の感覚は、再び書となって現れてきます。書の修行がこうした根の部分を養う作業だとしたら、展覧会の作品は、いわば地上に見える枝葉であり花です。作品を美しく着飾る表装、広々とした展覧会場は、まさに書のはれ舞台ともいえます。下を向いて黙々と手を動かす書の場面とは対照的に、展覧会は多くの人が行き交い作品を見上げる雅びな書の場面です。
 東京書藝展は本会の会員はどなたでも参加が出来ます。作品制作が初めての方もいらっしゃるでしょう。どのような流れで書を作品としていくかは今後、この実りの案内を参考にしたり、先生と相談をするとよいでしょう。月々の課題や試験に追われる中、展覧会に向けての作品制作は書を学ぶ上で一里塚として残ります。出品作品が多くの観覧者の目にふれることで、また自分の目線が上がっていくのも展覧会ならではの効用です。
 来年に行われる展覧会は、四年どころか六年ぶりとなります。コロナ禍で自宅にこもることを強いられただけ、書は自らの奥底により深く根を張ったと考えれば、来年の東京書藝展は今迄以上に充実したものとなることでしょう。会員の皆様のご参加を心よりお待ちしております。

補点とは(2022年5月号) [2022]

 「神」や「舞」といった文字の右下にひとつ点が打たれているのを見たことがありませんか。この点は一般に「補点」と呼ばれていますが、他にも「補空」「リズム点」「おしゃれ点」などと呼ばれることもあります。補点は「補空」といわれるように文字の空隙を埋めたり、「リズム点」の言葉どおりリズムを整える役割があります。この補点は篆書には見られません。この書体が使われていた頃は、まだ文字にリズムを加えて書くということはしませんでした。篆隷に筆順なし、という言葉があります。例えば「方」の文字を書くとしましょう。正しい筆順は最後に左下の画を払います。この筆順であれば「トン・トン・トン・トン・スー」というリズムで書けますが、誤った筆順とされる最後に右下の画をはねる書き方だと「トン・トン・トン・トン・トン」と、一本調子になります。
 習字において筆順を正しく書くことは大切です。リズムよく書くことは文字を美しく書くことに通じます。例えば文章に書きおろす際に、「です」「です」「です」と続いたら、今度は「ます」としたくなるもので、「た」「た」「た」ときたら「である」と調子を整えたくなるものです。文字を書く際にもこうした調子を整えることは身らの内なるものを他に伝えるためにも重要です。
 篆書体には補点らしきものは見られませんが、隷書体が書かれた時代の後期の頃には補点が散見されるようになります。レタリングのように非連続の書体であった篆書体にはリズム点の必要がなかったからです。隷書体が書かれるようになると徐々に連続性が高まり、こうしたリズム点が出現してくるわけです。例えば「土」の文字に点が加わった「圡」を見たことはありませんか。これも補点です。もちろん「土」も「圡」も読みや意味はまったく同じです。私の知り合いにも圡方さんがいます。
 たかが点一つの話しですが、この補点の存在は、現代の書が形だけではないことを示しています。言語性、手の巧緻な動き、造形性、それにリズム性を並列的に処理することは手書き以外、人間の他の活動には見られません。文字を打つことが日常となる中において、こうした側面から考えてみると、また手書き教育の意義は明らかになることと思います。

海外の手書き教育と日本の習字(2022年4月号) [2022]

 「習字」というと、日本的な学習風景が想い起こされるかもしれません。海外における「手書き」は、例えばイギリスならハンドライティングです。このハンドライティングもCursive writingとManuscript writingに大別されます。前者は「筆記体」で、アルファベット同士が互いにつながりを持って書ける形です。後者は「ブロック体」「活字体」で、書物などに印刷される形です。欧米ではこの二つの書体を両方学ぶことが一般的です。
 イギリスの小学校は日本と同じ六学年制です。日本の学習指導要領にあたるThe National Curriculum in Englandでは、ハンドライティングに関する学習内容が示されています。第一学年では「正しい姿勢で座り、鉛筆を望ましい持ち方で持つ」「頻繁にかつ個別に直接指導を要する」「筆記具(鉛筆、ペン)の大きさは、児童の手にとって大きすぎないようにする」「児童にとって望ましい筆記具であれば望ましい持ち方が保持でき、悪い習慣を避けられる」……等々です。こうした内容、注記が学年ごとに詳細に記述されています。第二学年になれば「正しい字形の復習や練習を頻繁に行う」、第三・四学年では「続け書きができるようになる」とあります。第五・六学年ともなれば「読み易く自然な運筆で、速度を上げて書ける」といった内容まで加わってきます。こうしてみると、日本の書き方教育の指導内容と大きな違いがあるようには感じられません。イギリスにおける入門期の手書き教育は日本の寺子屋教育と似ています。基本点画の練習とはいえ、それは線遊びに近いものです。「滑らかで流動的な線を書くことに役立つ」ということで、クルクルとバネのような形の線を描きます。脳科学の視点からすれば、手の連続した動きは、脳の言語野の活動を促すわけで、脳が形を言葉として認識する準備となります。
 いわゆる「習字」は欧米にもあるわけです。アルファベット圏の手書き重視の教育を顧みれば、日本の文字を手書きする意味について考えを深める機は熟していると思います。

落款印について(2022年3月号) [2022]

 作品を書いた後、作品の端に年月日や詩文の作品名、題名、自分の名前などを署し、印を押して完成の意を表します。学生部の作品にも、学年や名前を書き、完成を示します。これらを総称して落款と呼びます。
 落款という語は、「落成款識」を略した言葉との説があります。一般に「落成」とは書画の完成を意味し、「款識」は署名捺印のことを指します。「款識」は主に周時代につくられた古銅器や祭器に鋳込まれた文字で、「款」は凹なる文字、「識」は凸なる文字のことを意味します。
 落款に使われる印は古くから、中国で信を示すために用いられてきましたが、日本では、現存する中世以前の書には見られません。中世より明との貿易がさかんになり、宋・元・明の書形式が伝えられてから、日本で中国式の落款や押印がされるようになったのです。
 さて、近年、内閣府により「押印廃止プロジェクト」が進められています。身分証明のために印を使用する国は、現在の世界では日本のみといえるほど、珍しいようです。しかし書画の世界では、押印廃止の潮流は、おそらく無いでしょう。押印は完成の意味合いのほかに、作品への装飾的な要素が多分に含まれるためです。印と書の相互関係は作品全体の出来を大きく左右します。
 落款に使用する印は姓名印(主として白文)、雅号印(主として朱文)、堂号印(書斎の室名。主として朱文)、引首印や押脚印などです。成語などを用い作品の上部(頭の部分)に押すのは引首印、下部に押すのは押脚印と呼ばれるなど、押す位置にもゆるやかな決まりがあります。印の大きさは、一般的には落款の文字よりもやや小さめがよいでしょう。しかし絶対ではなく、本文や落款の文字との調和が重要視されます。
 今月号の「実り」には、毎年恒例の学生部の書き初め作品が掲載されています。作品に調和するように年号や名前が書けているか、印は使用せずともよいですが、押してある場合には作品に対しどのような効果があるか、それもみどころの一つです。しかし学生の作品ですから、難しく厳しく考えるのではなく、落款に興味を持つきっかけになれば良いと思います。

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