書家/川原世雲 巻頭言
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/
月刊競書誌「実り」に掲載されている川原世雲会長のエッセイ。毎月更新。ごらんになった後はウインドウを閉じてください。<東京書芸協会>http://www.shogei.jp/
川原世雲
2023-09-08T21:03:24+09:00
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文字の形の標準と許容について (2023年9月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2023-09-08-5
文字をタイピング、もしくはパネルにタッチして書くことの多くなったこの頃でも、教育の現場で「書き取り」は必須の課題です。私が学生の時に師事した国語教育界の大御所の教授も、授業を進める中で時間が残ったらまず漢字の書き取りをさせるとよい、とよくおっしゃられていたことを想い出します。書き取りはもちろん手書きですから、自分の頭で字形を想起し、それに添い手を動かさなければなりません。この一連の作業の中で、脳はどのような活動を行っているのかというと、まず側頭葉でひらがなやカタカナで示された文字を言葉として認識し、それに相当する漢字の字形を頭頂葉の中で描きます。目の前の紙面を視覚で把握するのは後頭葉、最後に前頭葉の機能である手の細かい動きを伴って頭の中で計画した文字を完成させます。一方、タイピングで文字を書くとなると、文字の音に対応した漢字を候補の中から選ぶこととなり頭の中で字形を構築したり、字形に添う細かい手の動きを必要とせず、頭頂葉や前頭葉の活動を促しません。手書きは基本的に全脳的な活動となるわけですが、これに美しく書く、という要素が加われば、体性感覚野、運動野などの更なる活動が必要となり、脳の成長が期待されます。書き取りをする脳の機能がまだ明らかになっていない頃、先賢はこの課題の教育的重要性を経験から知っていたのでしょう。 書き取りを課す側の責任も重大です。標準字体というものを金科玉条のものとして、はねる、とめる、長短といった漢字の骨格には関係のないところを指摘してバツとすることがありますが、それはいけません。標準字体表の運用の注意書きにも許容の形を大切にするようにとあり、また「常用漢字表の字体・字形に関する指針」文化審議会国語分科会報告( 文化庁) といったすべての漢字の許容の形について丁寧に記した指導書もあります。ひらがなに至っては曲線が多く、標準字体さえ示されていないため、各教科書会社で違いがあり、例えばA社の「な」の下の結ぶ部分は三角形で、B社は丸くなっていたりします。 文字というのは言葉であり、車のハンドルと同じで、その「遊び」の幅が狭過ぎても逆に緩過ぎてもうまく使いこなすことはできません。字形の許容の考え方が分かれば手書きする楽しさはまるで音楽を奏でるかのようにグンとアップするはずです。文字を手書きする教育的意義を教育者がしっかりと理解しなければならないでしょうし、また社会人の方々もこれについて考えていくことが..
2023
川原世雲
2023-09-08T21:03:24+09:00
書き取りを課す側の責任も重大です。標準字体というものを金科玉条のものとして、はねる、とめる、長短といった漢字の骨格には関係のないところを指摘してバツとすることがありますが、それはいけません。標準字体表の運用の注意書きにも許容の形を大切にするようにとあり、また「常用漢字表の字体・字形に関する指針」文化審議会国語分科会報告( 文化庁) といったすべての漢字の許容の形について丁寧に記した指導書もあります。ひらがなに至っては曲線が多く、標準字体さえ示されていないため、各教科書会社で違いがあり、例えばA社の「な」の下の結ぶ部分は三角形で、B社は丸くなっていたりします。
文字というのは言葉であり、車のハンドルと同じで、その「遊び」の幅が狭過ぎても逆に緩過ぎてもうまく使いこなすことはできません。字形の許容の考え方が分かれば手書きする楽しさはまるで音楽を奏でるかのようにグンとアップするはずです。文字を手書きする教育的意義を教育者がしっかりと理解しなければならないでしょうし、また社会人の方々もこれについて考えていくことが大切かと思います。
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宣教師が見た日本の教育(2023年8月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2023-09-08-4
習字を日課とした寺子屋は、江戸時代の教育を支えた庶民の学校として知られています。江戸時代が一六〇三年からとすれば、それ以前の教育はどう行われていたのでしょうか。 フランシスコ・ザビエル(一五〇六~五二)は、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師です。一般に戦国時代と言われるのが一四八〇~一五七〇年頃ですから、ザビエルはちょうどその頃に日本を訪れたことになります。ザビエルが一五四九年に知人に宛てた書簡には、日本人が子供を虐待せず大切に育てていると述べています。また、子供達の賢明さも賞讃しています。安土桃山時代の一五八五年に来日したルイス・フロイス(一五三二~九七)は、日本人女性の多くが文字を書くこと、教育において体罰を行わないこと、子供達は寺で学習すること、日本の教育はまず書くことを学び、のちに読みを学ぶこと、日本の子どもは十歳でも五十歳と同じくらいの判断力と賢明さ、さらには思慮分別を備えていることなどをその著書『日に ほ本ん 覚おぼえがき書』に記しています。この時代に日本を訪れた宣教師たちが日本のどの地域でどのような階層の人々と交流したかは定かではないものの、習字を中心とした江戸の寺子屋教育は、当時既に芽吹いていたことが想像されます。鎖国令の出された一六三三年以降一八五四年迄こうした海外から見た日本のようすの記録は極端に少なくなります。 教育の中心が「習字」であり、それが人間形成を目的とすることであることは、機械で文字が打ち出せるようになった現在でも変わりません。手書きは文字の形態の正確な想起、運動計画、運動実行、視覚と手の巧緻な運動の協調、適切な筆圧を保つといった脳の非常に複雑な機能を統合的に必要とする行為であり、結果、その中枢ある前頭葉の人間の高次な機能の発達を促します。一方、機械で日本の文字を打ち出す場合、手書きと同じ言語活動でありながら手指の運動は基本的に文字の音韻に対応したアルファベットのキーを押す単純な行為となります。生成AIの存在がクローズアップされる昨今、人間の身体性にも注目が集まっています。人間が手書きすることの意味について考えなくてはならない時代が到来しています。
2023
川原世雲
2023-09-08T21:00:33+09:00
フランシスコ・ザビエル(一五〇六~五二)は、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師です。一般に戦国時代と言われるのが一四八〇~一五七〇年頃ですから、ザビエルはちょうどその頃に日本を訪れたことになります。ザビエルが一五四九年に知人に宛てた書簡には、日本人が子供を虐待せず大切に育てていると述べています。また、子供達の賢明さも賞讃しています。安土桃山時代の一五八五年に来日したルイス・フロイス(一五三二~九七)は、日本人女性の多くが文字を書くこと、教育において体罰を行わないこと、子供達は寺で学習すること、日本の教育はまず書くことを学び、のちに読みを学ぶこと、日本の子どもは十歳でも五十歳と同じくらいの判断力と賢明さ、さらには思慮分別を備えていることなどをその著書『日に ほ本ん 覚おぼえがき書』に記しています。この時代に日本を訪れた宣教師たちが日本のどの地域でどのような階層の人々と交流したかは定かではないものの、習字を中心とした江戸の寺子屋教育は、当時既に芽吹いていたことが想像されます。鎖国令の出された一六三三年以降一八五四年迄こうした海外から見た日本のようすの記録は極端に少なくなります。
教育の中心が「習字」であり、それが人間形成を目的とすることであることは、機械で文字が打ち出せるようになった現在でも変わりません。手書きは文字の形態の正確な想起、運動計画、運動実行、視覚と手の巧緻な運動の協調、適切な筆圧を保つといった脳の非常に複雑な機能を統合的に必要とする行為であり、結果、その中枢ある前頭葉の人間の高次な機能の発達を促します。一方、機械で日本の文字を打ち出す場合、手書きと同じ言語活動でありながら手指の運動は基本的に文字の音韻に対応したアルファベットのキーを押す単純な行為となります。生成AIの存在がクローズアップされる昨今、人間の身体性にも注目が集まっています。人間が手書きすることの意味について考えなくてはならない時代が到来しています。
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中国古典文献にみえる 書写書道教育と人間形成(2023年7月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2023-09-08-3
人間らしい心、すなわち人間以外の他の動物が持ち得ない恥や思いやりといった高等な感情、こうした心と書に関する文言については中国の文献に古くから見られます。『揚子法言』問神には「書は心画なり」とあります。この著書は前漢時代のものです。また「心正しければ、則ち筆正し」とは柳公権の著した『旧唐書』に見られる言葉です。心のありようが書に反映されるということは、この頃から既に言われていたということです。 北宋の蘇軾(一〇三六~一一〇一)の著書『東坡題跋』巻四「論書」には、「書には必ず神・気・骨・肉・血有り。五者一を闕か かば、成書を為さざるなり。」という言葉が見えます。書には必ず神・気・骨・肉・血の要素があり五つのうちどの一つが欠けても、立派な書にはならないと述べています。蘇軾のいう「神」は、漢代以来の重要な芸術用語で、精神を意味し、形の対語として用いられます。「気」は気力あるいは生気の意味です。明の項穆(一五五○?~一六○○?)の著書『書法雅言』には「書に性情有るは、即ち筋力の属なり。」という言葉が見えます。書に生命力や趣を持つ者は筋力を持つのと同じであると述べています。ここでいう「性情」は人の性質や心情を、また「筋力の属」は肉体の力を持つ者、すなわち人間を指しています。清の王宗炎(一七四九~一八二五)の著書『論書法』には「書を作る道は、規き矩くは心に在りて、変化は手に在り。」という言葉が見えます。文字の姿態や形勢に、気ままな筆づかいが見られず、きちっとした規範がそなわっている、これは心の働きになると述べています。 他にも書と心のありようについての関連に触れている中国古典文献は数多くあります。書が人の心を表わすものであり、書写書道教育が人間形成と関連性を持っていることに昔から多くの人が気づいていたことが分かります。最近ではこれに脳科学の知見が加わり、なぜ「書は人なり」であるのかが解明され始めています。現代社会において書の役割は今後益々重要になってくるでしょう
2023
川原世雲
2023-09-08T20:58:49+09:00
北宋の蘇軾(一〇三六~一一〇一)の著書『東坡題跋』巻四「論書」には、「書には必ず神・気・骨・肉・血有り。五者一を闕か かば、成書を為さざるなり。」という言葉が見えます。書には必ず神・気・骨・肉・血の要素があり五つのうちどの一つが欠けても、立派な書にはならないと述べています。蘇軾のいう「神」は、漢代以来の重要な芸術用語で、精神を意味し、形の対語として用い
られます。「気」は気力あるいは生気の意味です。明の項穆(一五五○?~一六○○?)の著書『書法雅言』には「書に性情有るは、即ち筋力の属なり。」という言葉が見えます。書に生命力や趣を持つ者は筋力を持つのと同じであると述べています。ここでいう「性情」は人の性質や心情を、また「筋力の属」は肉体の力を持つ者、すなわち人間を指しています。清の王宗炎(一七四九~一八二五)の著書『論書法』には「書を作る道は、規き矩くは心に在りて、変化は手に在り。」という言葉が見えます。文字の姿態や形勢に、気ままな筆づかいが見られず、きちっとした規範がそなわっている、これは心の働きになると述べています。
他にも書と心のありようについての関連に触れている中国古典文献は数多くあります。書が人の心を表わすものであり、書写書道教育が人間形成と関連性を持っていることに昔から多くの人が気づいていたことが分かります。最近ではこれに脳科学の知見が加わり、なぜ「書は人なり」であるのかが解明され始めています。現代社会において書の役割は今後益々重要になってくるでしょう
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思考を深める(2023年6月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2023-09-08-2
人工知能の開発が進むにつれて、それが人の暮らしを豊かにしてくれるものかどうか疑問符がつき始めています。教育の場面では人の知能を育もうとしているのですから、それを他の人や機械にしてもらえば、その人の発達を妨げかねません。便利な機械は社会の欠かすことの出来ない重要なインフラとなっており、これなしに現代の生活は成り立たないでしょう。便利すぎる機械に依存することなく、上手に使いこなしていくためには、まずは使う側個々人の「教育」が必要になってくるはずです。 対話型AI(チャットGPT)は膨大なデータを集めて、そこから確率に基づいて答えを出すだけ機械であり、「考えて」いるわけではありません。また大量の情報の処理過程では間違いが起こる可性が指摘されています。こうした間違いが起こらないように、機械の情報処理の精度が極限にまで上れば上がる程、既に自分の頭で考えないことに慣れきった人は、機械の出した結果の明らかな間違い気付かなくなるかも知れません。現在、この人工知能とどう向き合っていくか世界全体がその対応をられています。 身近な例では、学校でのレポート課題です。課題を入力すれば答えを作ってくれるのですから、それこそ自分で作ったはずのレポートの内容を知らなくても課題をこなすことが出来てしまいます。出典の明記された確かな文献を手がかりにして、それをどう自分なりに構成していくか考えるのがレポート作成の基本です。こうした手続きをスキップしてしまったら、頭を鍛えるという教育そのものが行われなくなってしまいます。 このような懸念が現実のものとなってきている昨今、レポートを手書きで提出するよう求める先生もいるそうです。何だかんだといってコピペがはびこるのだから、せめて自分の手で書いて頭を使ってもらおう、という諦観です。手書きは脳の様々な領域を並列的に動かす行為です。このような時代だからこそ、教育としての書と向き合うことの意味について考えなくてはならないと思います。
2023
川原世雲
2023-09-08T20:55:29+09:00
対話型AI(チャットGPT)は膨大なデータを集めて、そこから確率に基づいて答えを出すだけ機械であり、「考えて」いるわけではありません。また大量の情報の処理過程では間違いが起こる可性が指摘されています。こうした間違いが起こらないように、機械の情報処理の精度が極限にまで上れば上がる程、既に自分の頭で考えないことに慣れきった人は、機械の出した結果の明らかな間違い気付かなくなるかも知れません。現在、この人工知能とどう向き合っていくか世界全体がその対応をられています。
身近な例では、学校でのレポート課題です。課題を入力すれば答えを作ってくれるのですから、それこそ自分で作ったはずのレポートの内容を知らなくても課題をこなすことが出来てしまいます。出典の明記された確かな文献を手がかりにして、それをどう自分なりに構成していくか考えるのがレポート作成の基本です。こうした手続きをスキップしてしまったら、頭を鍛えるという教育そのものが行われなくなってしまいます。
このような懸念が現実のものとなってきている昨今、レポートを手書きで提出するよう求める先生もいるそうです。何だかんだといってコピペがはびこるのだから、せめて自分の手で書いて頭を使ってもらおう、という諦観です。手書きは脳の様々な領域を並列的に動かす行為です。このような時代だからこそ、教育としての書と向き合うことの意味について考えなくてはならないと思います。
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東京書藝展のこれから(2023年5月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2023-09-08-1
六年ぶりに行われた本会主催の東京書藝展が去る四月九日(日)無事終了いたしました。実行委員長の塚原月華先生をはじめ役員の先生方、事務スタッフ、お手伝いいただいた方、またご観覧にお越しいただいた方々、皆様のおかげで素晴らしい展覧会になったこと厚く御礼申し上げます。 書藝展の名のとおり、書をテーマに工夫を凝らした実に様々な作品が出品されていました。個性的な作品も全体の中で見事に調和しており、作品どうしが互いに引き立て合う、そんな展覧会になったかと思います。 一つの書道団体の展覧会としては洗練された完成度の高い仕上がりになったと思います。ただ、それだけに今後これ以上のものを求めるとしたら、会期や会場、出品形態など多角的に見直していくことも必要かと感じました。 お気づきになった方もいらっしゃるかと思いますが、ギャラリー2の入口の脇に「書字と脳の研究」のコーナーを設けました。学生部の展示スペースとは趣きを異にしていましたが、一般部にせよ、学生部にせよ、本会の書の理念は、こうした学際性の高い科学的な研究によって支えられており、本展はそれを具現化したとも言えるのです。会員の皆様が学習環境を確かなものとするためにも、色々な分野の方々と協力し、文字を手書きする意味を研究していくつもりです。 展覧会期間中は、来場する方々を出迎えたく出来得る限り会場に居るようにしたつもりなのですが、すれ違いでご挨拶が叶わなかった方々には、この場を借りてお詫び申し上げます。それでも多くの方々と拝眉の機会に恵まれましたこと嬉しく思っておりす。本当に久しぶりにお目にかかる方もおり、こうした側面からも有意な展覧会であったと思います。 書教育は今、技能習得から高次脳機能の獲得、言い換えれば人間形成へと大きく舵を切ろうとしています。激変する社会環境の中で書を能くすることは益々重要性を高めていくことでしょう。皆様のこれからのご健筆を心より祈念しております。
2023
川原世雲
2023-09-08T20:53:45+09:00
書藝展の名のとおり、書をテーマに工夫を凝らした実に様々な作品が出品されていました。個性的な作品も全体の中で見事に調和しており、作品どうしが互いに引き立て合う、そんな展覧会になったかと思います。
一つの書道団体の展覧会としては洗練された完成度の高い仕上がりになったと思います。ただ、それだけに今後これ以上のものを求めるとしたら、会期や会場、出品形態など多角的に見直していくことも必要かと感じました。
お気づきになった方もいらっしゃるかと思いますが、ギャラリー2の入口の脇に「書字と脳の研究」のコーナーを設けました。学生部の展示スペースとは趣きを異にしていましたが、一般部にせよ、学生部にせよ、本会の書の理念は、こうした学際性の高い科学的な研究によって支えられており、本展はそれを具現化したとも言えるのです。会員の皆様が学習環境を確かなものとするためにも、色々な分野の方々と協力し、文字を手書きする意味を研究していくつもりです。
展覧会期間中は、来場する方々を出迎えたく出来得る限り会場に居るようにしたつもりなのですが、すれ違いでご挨拶が叶わなかった方々には、この場を借りてお詫び申し上げます。それでも多くの方々と拝眉の機会に恵まれましたこと嬉しく思っておりす。本当に久しぶりにお目にかかる方もおり、こうした側面からも有意な展覧会であったと思います。
書教育は今、技能習得から高次脳機能の獲得、言い換えれば人間形成へと大きく舵を切ろうとしています。激変する社会環境の中で書を能くすることは益々重要性を高めていくことでしょう。皆様のこれからのご健筆を心より祈念しております。
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日本の文字文化の奥深さに触れよう(2023年4月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2023-09-08
授業の中で過去の文献を声に出して読む場面で、その文を学生が読めないことがあります。これは戦後およそ四百文字程度の漢字が簡略化され、もとの形が旧字体となったからで、この七十余年前に使われていた漢字を学習する機会がなかったことに起因するものです。 先日行われた大学入試共通テストの日本史に、筆文字で「蘭學」と書かれた設問がありました。日本史を学んでいく際に、こうした旧字体もしくは書写体についての知識は必須であるわけです。他方、英語圏は一六〇〇年頃のシェイクスピア文学でも現代の英語の知識があれば読むことが出来ます。日本の文字文化の分断は歴史の学習上大きな障壁とさえなっているともいえます。 戦後、日本の文字が簡略化された理由は、まずGHQの意向があります。米・イリノイ大学総長ジョージ・D・ストダード博士を団長とする教育使節団は「現在の日本の文字の如く、暇のかかる表現と通信の手段を弄するといった贅沢なことをなし得る近代国家が一つでもあろうか。われわれは日本文字の徹底的改良が必要だと考える。」と述べています。また国内でも印刷の精度が当時低かったため、旧字体は繁体で文字がつぶれ易いということから出版業界などからも簡略化を歓迎したといわれます。 後に、文字の簡略化を進めた東京大学言語学教授の服部四郎は昭和三十五年、以下のように語っています。「こう字が易しくなれば、つまりそれだけ学習の時間が負担が軽くなって、ほかのほうの学科に振向けることが出来る。学習の時間を取れる。そう簡単に考えておりましたが、実は人間は字が易しくなるとなまけるものだということに気づいたわけであります。」四郎は、思考の足腰、すなわち脳の機能を鍛えるためには、相応の文字の負荷をかけることが必要であることに気がついたということです。 旧字体、書写体など、書を学ぶ上ではこうした難しい文字を使いこなしていかなくてはなりません。これはとりも直さず日本を深く知ることであり、それこそ贅沢な学びです。この豊かな日本の資源により多くの人が気づけば、この国の将来も再び輝きをとり戻すことと私は考えています。
2023
川原世雲
2023-09-08T20:50:35+09:00
先日行われた大学入試共通テストの日本史に、筆文字で「蘭學」と書かれた設問がありました。日本史を学んでいく際に、こうした旧字体もしくは書写体についての知識は必須であるわけです。他方、英語圏は一六〇〇年頃のシェイクスピア文学でも現代の英語の知識があれば読むことが出来ます。日本の文字文化の分断は歴史の学習上大きな障壁とさえなっているともいえます。
戦後、日本の文字が簡略化された理由は、まずGHQの意向があります。米・イリノイ大学総長ジョージ・D・ストダード博士を団長とする教育使節団は「現在の日本の文字の如く、暇のかかる表現と通信の手段を弄するといった贅沢なことをなし得る近代国家が一つでもあろうか。われわれは日本文字の徹底的改良が必要だと考える。」と述べています。また国内でも印刷の精度が当時低かったため、旧字体は繁体で文字がつぶれ易いということから出版業界などからも簡略化を歓迎したといわれます。
後に、文字の簡略化を進めた東京大学言語学教授の服部四郎は昭和三十五年、以下のように語っています。「こう字が易しくなれば、つまりそれだけ学習の時間が負担が軽くなって、ほかのほうの学科に振向けることが出来る。学習の時間を取れる。そう簡単に考えておりましたが、実は人間は字が易しくなるとなまけるものだということに気づいたわけであります。」四郎は、思考の足腰、すなわち脳の機能を鍛えるためには、相応の文字の負荷をかけることが必要であることに気がついたということです。
旧字体、書写体など、書を学ぶ上ではこうした難しい文字を使いこなしていかなくてはなりません。これはとりも直さず日本を深く知ることであり、それこそ贅沢な学びです。この豊かな日本の資源により多くの人が気づけば、この国の将来も再び輝きをとり戻すことと私は考えています。
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東京書藝展を楽しもう(2023年3月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2023-03-15-1
六年ぶりとなる本会主催の東京書藝展の開催が目前に迫ってきました。出品された会員の方々は作品の提出も終わり、ほっとされていることでしょう。お疲れ様でした。 展覧会には出品のいかんにかかわらず、どなたでも入場することが出来ます。教室の仲間、ご家族、ご友人など多勢連れだってお出かけ下さい。 学生部は規定の課題に取り組みました。書作品制作に懸命に取り組むことは、脳の成長に有益です。それぞれ素晴らしい作品です。心より拍手を送りたいと思います。また学生部の会員の皆さんは、大人の作品も鑑賞してみて下さい。難しい文字が沢山並んでいますが、興味を持った作品は、先生や保護者の方に、その読みや意味を聞いてみるのもよいでしょう。将来は自分が出品するようになるかも知れません。 師範・準師範部の作品は大作、力作揃いです。書の完成度のみならず、紙や墨の吟味、印、表装、そして会場との調和を図り、総合芸術の域まで書を高めています。確かな教養と、地道な積み重ねを要する技芸を兼ね備えなければ成し得ない書芸術です。勘やセンスだけではどうにもならない奥深さが書の魅力です。 一般部では、今回初めて出品したという方も少なくないようです。先生と相談しながら、一つ一つ積み上げるように真摯に創り上げた作品は、鑑賞者に訴えるものが大きいものです。今回、出品されなかった方は、次回は挑戦してみて下さい。月々の課題制作とは異なり、自らの稽古の証として図録や展覧会の記憶と共に作品は残るからです。 会場となる東京芸術劇場は、池袋駅前にあり、交通至便で、また食事や買い物をするお店も充実しています。書に興味のない方も誘って、春の一日、芸術の話題に花を開かせるのもよいでしょう。コロナ禍を越え、久しぶりの展覧会となります。皆様ぜひ東京書藝展を楽しんでください。
2023
川原世雲
2023-03-15T22:27:02+09:00
六年ぶりとなる本会主催の東京書藝展の開催が目前に迫ってきました。出品された会員の方々は作品の提出も終わり、ほっとされていることでしょう。お疲れ様でした。
展覧会には出品のいかんにかかわらず、どなたでも入場することが出来ます。教室の仲間、ご家族、ご友人など多勢連れだってお出かけ下さい。
学生部は規定の課題に取り組みました。書作品制作に懸命に取り組むことは、脳の成長に有益です。それぞれ素晴らしい作品です。心より拍手を送りたいと思います。また学生部の会員の皆さんは、大人の作品も鑑賞してみて下さい。難しい文字が沢山並んでいますが、興味を持った作品は、先生や保護者の方に、その読みや意味を聞いてみるのもよいでしょう。将来は自分が出品するようになるかも知れません。
師範・準師範部の作品は大作、力作揃いです。書の完成度のみならず、紙や墨の吟味、印、表装、そして会場との調和を図り、総合芸術の域まで書を高めています。確かな教養と、地道な積み重ねを要する技芸を兼ね備えなければ成し得ない書芸術です。勘やセンスだけではどうにもならない奥深さが書の魅力です。
一般部では、今回初めて出品したという方も少なくないようです。先生と相談しながら、一つ一つ積み上げるように真摯に創り上げた作品は、鑑賞者に訴えるものが大きいものです。今回、出品されなかった方は、次回は挑戦してみて下さい。月々の課題制作とは異なり、自らの稽古の証として図録や展覧会の記憶と共に作品は残るからです。
会場となる東京芸術劇場は、池袋駅前にあり、交通至便で、また食事や買い物をするお店も充実しています。書に興味のない方も誘って、春の一日、芸術の話題に花を開かせるのもよいでしょう。コロナ禍を越え、久しぶりの展覧会となります。皆様ぜひ東京書藝展を楽しんでください。
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世界の手書きと脳の研究(2023年2月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2023-03-15
「手書きは書き言葉を学び、使用する最も一般的な方法である。どのような書体であれ、文字を手書きするということは、いくつかの認知・運動機能を必要とする。この非常に特殊な能力は、複雑な神経基盤に支えられている。」――この文章は、二〇一三年、18の手書きの脳神経画像を分析したフランスとスイスの共同研究からなる論文の中の言葉です。またこの論文では手書きすることに直接的に関心を持つ画像研究の数が比較的少ないと述べています。さらに興味深い点に、アルファベット文化圏の研究者でありながら、アルファベットの研究のみならず音節文字と表意文字の例として、日本語の仮名と漢字を挙げています。 カナダの研究者は、人間が絵を描く能力は数万年前からあるのに対し、文字を書く能力は数千年前からであり、識字が普及したのはごく最近のことであるとし、描くことと書くことの間に脳において大きな認知システムの違いがあることを示しています。 アメリカの研究者はユニークな実験を行っています。効き手の右手、左手、右足で書く、それからジグザグに書く、叩く(タッピング)など、それらの脳の活動のようすをMRIで観察しています。結果、効き手の右手を使って文字を書く行為は、習熟していない左手を使ったり足を使って書いたりすることよりも脳の活動が活発化し、より大きな脳内ネットワークを動員することが分かったとしています。また、手のジグザグ運動や叩くといった運動と比べても、より多くの脳領域を使用していると指摘しています。 オランダの研究者は、効き手である右手とそうではない左手で書くときの脳の活動の違いのようすを、幾何学図形を描いたり鉛筆でタッピングしたりするのと比較しています。これもMRIを使った実験ですが、手書きの脳内ネットワークの解明に迫っています。 手書きすることが少なくなったという人が増えているようです。世界はすでに手書きの時代に動き始めていることを時に感じることがあります。豊かな手書き文化は日本の力そのものであると私は考えています。
2023
川原世雲
2023-03-15T22:25:56+09:00
――この文章は、二〇一三年、18の手書きの脳神経画像を分析したフランスとスイスの共同研究からなる論文の中の言葉です。またこの論文では手書きすることに直接的に関心を持つ画像研究の数が比較的少ないと述べています。さらに興味深い点に、アルファベット文化圏の研究者でありながら、アルファベットの研究のみならず音節文字と表意文字の例として、日本語の仮名と漢字を挙げています。
カナダの研究者は、人間が絵を描く能力は数万年前からあるのに対し、文字を書く能力は数千年前からであり、識字が普及したのはごく最近のことであるとし、描くことと書くことの間に脳において大きな認知システムの違いがあることを示しています。
アメリカの研究者はユニークな実験を行っています。効き手の右手、左手、右足で書く、それからジグザグに書く、叩く(タッピング)など、それらの脳の活動のようすをMRIで観察しています。結果、効き手の右手を使って文字を書く行為は、習熟していない左手を使ったり足を使って書いたりすることよりも脳の活動が活発化し、より大きな脳内ネットワークを動員することが分かったとしています。また、手のジグザグ運動や叩くといった運動と比べても、より多くの脳領域を使用していると指摘しています。
オランダの研究者は、効き手である右手とそうではない左手で書くときの脳の活動の違いのようすを、幾何学図形を描いたり鉛筆でタッピングしたりするのと比較しています。これもMRIを使った実験ですが、手書きの脳内ネットワークの解明に迫っています。
手書きすることが少なくなったという人が増えているようです。世界はすでに手書きの時代に動き始めていることを時に感じることがあります。豊かな手書き文化は日本の力そのものであると私は考えています。
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世界が注目する手書き(2023年1月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2023-01-13
日本語のタイピング化が一般に普及しておよそ三十年が経ちました。難しい日本の文字を手書きせずとも文章を作れる便利な機械を使いこなすことは今や日常に必要なスキルとさえなっています。一方、世界を見わたすと、ここ数年、手書きについての重要な研究が増えてきています。 これらの研究は主にMRIなどの脳の活動を観察する機械によるもので、それらのほとんどが米国、カナダ、欧米各国の研究です。これらの研究の成果は英語で綴られており、興味がなければ、一般の日本人にとっては縁遠いものです。書字に関する研究者の一人としては、このような論文に目を通すことは必須です。これら科学論文は、「概要」「はじめに」「方法」「対象」「結果」「考察」と、型が決まっており、読み方が分かれば自分の研究が今、どの地点にあり、新たな知見として何を加えようとしているのかの位置づけが出来ます。日本がこの分野において研究が遅れている理由に、そもそも言語の中のとりわけ書字を領域としている研究者が非常に少ないことがあります。小学校においては毛筆習字が必修で、上代の頃よりの豊かな書字文化を誇る日本において、なぜここまで手書きについて研究が進まないのか不思議です。もう一点、例えば「うさぎ」とタイピングしようとします。ローマ字入力なら「USAGI」と音を打てばおしまいですが、英語なら「RABBIT」と打つか変換しなければなりません。中国語でもこれらをすべて漢字に変換しなければなりません。こうしたタイピングのし易さも日本での手書きの研究が進まない原因なのではと考えています。 海外の研究に目を向けると、例えば足に筆記具をはさんで書かせたり、ただ円を描いたり、指で机を叩いたりするのと、効き手で文字を書いたりする違いを観察したりしています。文字を書くには、その文字をどう書くか頭の中で計画しなくてはなりません。タイピングなら、描く文字と指の動きが一致しないし、紙面に適度な筆圧で書くという調整も不要です。これら海外の機械を使った研究と失書症などの研究により手で文字を書くことは非常に多くの脳の領域を同時に使用することがわかってきています。ただし、このネットワークが互いにどのように作用しているのかは、これからの研究に委ねられるところです。 書字の研究者として、日本の文字を書く難しさと同時にその奥深さを日々感じています。日本の文字を手書きすることは日本の力の源であると私は確信しています。
2023
川原世雲
2023-01-13T21:50:18+09:00
これらの研究は主にMRIなどの脳の活動を観察する機械によるもので、それらのほとんどが米国、カナダ、欧米各国の研究です。これらの研究の成果は英語で綴られており、興味がなければ、一般の日本人にとっては縁遠いものです。書字に関する研究者の一人としては、このような論文に目を通すことは必須です。これら科学論文は、「概要」「はじめに」「方法」「対象」「結果」「考察」と、型が決まっており、読み方が分かれば自分の研究が今、どの地点にあり、新たな知見として何を加えようとしているのかの位置づけが出来ます。日本がこの分野において研究が遅れている理由に、そもそも言語の中のとりわけ書字を領域としている研究者が非常に少ないことがあります。小学校においては毛筆習字が必修で、上代の頃よりの豊かな書字文化を誇る日本において、なぜここまで手書きについて研究が進まないのか不思議です。もう一点、例えば「うさぎ」とタイピングしようとします。ローマ字入力なら「USAGI」と音を打てばおしまいですが、英語なら「RABBIT」と打つか変換しなければなりません。中国語でもこれらをすべて漢字に変換しなければなりません。こうしたタイピングのし易さも日本での手書きの研究が進まない原因なのではと考えています。
海外の研究に目を向けると、例えば足に筆記具をはさんで書かせたり、ただ円を描いたり、指で机を叩いたりするのと、効き手で文字を書いたりする違いを観察したりしています。文字を書くには、その文字をどう書くか頭の中で計画しなくてはなりません。タイピングなら、描く文字と指の動きが一致しないし、紙面に適度な筆圧で書くという調整も不要です。これら海外の機械を使った研究と失書症などの研究により手で文字を書くことは非常に多くの脳の領域を同時に使用することがわかってきています。ただし、このネットワークが互いにどのように作用しているのかは、これからの研究に委ねられるところです。
書字の研究者として、日本の文字を書く難しさと同時にその奥深さを日々感じています。日本の文字を手書きすることは日本の力の源であると私は確信しています。
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印を使いこなす(2022年12月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2022-12-08-2
書の作品を仕上げるのに印は重要な役割を果たします。一般には、自らの名を書いたらその下に落款印を押し、作品の制作者を明らかにします。白と黒のみの世界の中に朱色が入ることにより、美的なアクセントが加わります。印の用い方次第で、作品の出来映えも大きく変わってくるとさえいえます。 落款印には姓名印と雅号印の二顆を押すのが通例です。姓名印には普通白文印(文字が白くなる印)を、雅号印には朱文印(文字が朱になる印)を使います。白文印は、重量感のある威厳にあふれた作りが特徴です。白文印は、秦、漢の時代には、官位や権利、所有を表すものとして盛んに用いられました。日本で発見された金印(漢委奴国王)も白文印です。秦や漢の時代に白文印が制度的に使われた理由に、この頃はまだ紙ではなく、布や木片、竹などが文書を記す材料とされていたことがあるのではないかと思います。表面がきれいな平面ではないため、白文印の方が押印に適していたと考えられるからです。 私も押印する際、白文印はやわらかい印褥(印を押す時に下に引く台)を使いますが、朱文印の場合は線がきれいに出なかったり、印の谷の部分が紙面に写り込んでしまうことがあるため、ガラス板に薄い紙を一、二枚乗せて押しています。朱文印は白文印とは異なり繊細な表現が特徴です。風雅さを重んじる文墨の世界では、雅号印は朱文印を用いることが一般的です。正統で格式の高い姓名印を上に押し、文墨の世界の住人である証として朱文印をその下に押すことは理に適っているといえます。 書作品の掲載された書籍や図録などを眺めていると印の使い方で作品の見方が違ってくることがあります。ただし、印はどちらかというと作品の脇役的な存在で、その印影を印刷された書面で細部まで鑑賞することは難しいものです。そのため私は博物館や展覧会で作品を見る際には印のようすをよく観察するようにしています。その押し方、色あいまでが実物からは感じとれるからです。印に対する知識は、書の力量と書をする愉しみを増やしてくれること間違いないでしょう。
2022
川原世雲
2022-12-08T21:59:25+09:00
落款印には姓名印と雅号印の二顆を押すのが通例です。姓名印には普通白文印(文字が白くなる印)を、雅号印には朱文印(文字が朱になる印)を使います。白文印は、重量感のある威厳にあふれた作りが特徴です。白文印は、秦、漢の時代には、官位や権利、所有を表すものとして盛んに用いられました。日本で発見された金印(漢委奴国王)も白文印です。秦や漢の時代に白文印が制度的に使われた理由に、この頃はまだ紙ではなく、布や木片、竹などが文書を記す材料とされていたことがあるのではないかと思います。表面がきれいな平面ではないため、白文印の方が押印に適していたと考えられるからです。
私も押印する際、白文印はやわらかい印褥(印を押す時に下に引く台)を使いますが、朱文印の場合は線がきれいに出なかったり、印の谷の部分が紙面に写り込んでしまうことがあるため、ガラス板に薄い紙を一、二枚乗せて押しています。朱文印は白文印とは異なり繊細な表現が特徴です。風雅さを重んじる文墨の世界では、雅号印は朱文印を用いることが一般的です。正統で格式の高い姓名印を上に押し、文墨の世界の住人である証として朱文印をその下に押すことは理に適っているといえます。
書作品の掲載された書籍や図録などを眺めていると印の使い方で作品の見方が違ってくることがあります。ただし、印はどちらかというと作品の脇役的な存在で、その印影を印刷された書面で細部まで鑑賞することは難しいものです。そのため私は博物館や展覧会で作品を見る際には印のようすをよく観察するようにしています。その押し方、色あいまでが実物からは感じとれるからです。印に対する知識は、書の力量と書をする愉しみを増やしてくれること間違いないでしょう。
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言葉を書くということ(2022年11月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2022-12-08-1
文字を書く時と、絵を描く時の脳の活動の違いを調べた興味深い実験があります。これは脳の活動を測定するNIRSという機械を用いたものです。まず、線画で描かれた絵のカードを次々と提示して被験者はその形を写していきます。そして今度は、はさみや紙、えんぴつなどの絵のカードを次々と提示し、その絵が何であるか文字で書いていきます。そして再び線画で描かれた絵のカードに戻り、これを繰り返していきます。NIRSの計測によれば、線画を描いている時は主に脳の右半球が活動し、文字を書いている時は、脳の右半球に加え、言語を司る左半球も同時に活動を始めるという結果が得られました。手で文字を書く際には脳の中で使用しない領域がないと思われる程だ、と指摘する脳科学者もいます。 文字には形と読みと意味の三つの要件があります。絵を描くのと比べ、文字には読みや意味といった要素が加わってくるため、脳はより広い領域を同時に使用せざるを得なくなります。高村光太郎(一八八三~一九五六)は、詩人であり彫刻家でもあります。光太郎は、その著書『書の深淵―最後の書論―』の中で「書をみるのはたのしい。画は見飽きることもあるが、書はいくら見ていてもあきない。またいくどくり返してみてもそのたびに新しく感ずる。」と述べています。文字は本来、言葉を表す記号であり、その記号に絵画的な要素が加わり過ぎれば、書としての価値は相対的に低くなることでしょう。絵画には文字記号の制約がなく、造形的な価値を追及することが出来ます。 展覧会に出かけたりすると、草書体や変体がな、難解な漢字で書かれた作品が展示されています。そんな作品の読みと意味も知りたくなるものです。書作品には釈文という文章が付けられることがあります。これは作品を言葉として理解、鑑賞することを手助けしてくれる説明書きです。展覧会などでは、多くの作品を歩きながら見ていくため、この釈文は一息で読める位の長さが適当です。この釈文のつけ方次第で作品の表現も大きく変わるとさえ言えるでしょう。 光太郎は「書はやっぱり最後の芸術だな」とも述べています。この奥深き書の道を皆さんどう歩まれるか、来春の展覧会が今から楽しみです。
2022
川原世雲
2022-12-08T21:58:09+09:00
文字を書く時と、絵を描く時の脳の活動の違いを調べた興味深い実験があります。これは脳の活動を測定するNIRSという機械を用いたものです。まず、線画で描かれた絵のカードを次々と提示して被験者はその形を写していきます。そして今度は、はさみや紙、えんぴつなどの絵のカードを次々と提示し、その絵が何であるか文字で書いていきます。そして再び線画で描かれた絵のカードに戻り、これを繰り返していきます。NIRSの計測によれば、線画を描いている時は主に脳の右半球が活動し、文字を書いている時は、脳の右半球に加え、言語を司る左半球も同時に活動を始めるという結果が得られました。手で文字を書く際には脳の中で使用しない領域がないと思われる程だ、と指摘する脳科学者もいます。
文字には形と読みと意味の三つの要件があります。絵を描くのと比べ、文字には読みや意味といった要素が加わってくるため、脳はより広い領域を同時に使用せざるを得なくなります。高村光太郎(一八八三~一九五六)は、詩人であり彫刻家でもあります。光太郎は、その著書『書の深淵―最後の書論―』の中で「書をみるのはたのしい。画は見飽きることもあるが、書はいくら見ていてもあきない。またいくどくり返してみてもそのたびに新しく感ずる。」と述べています。文字は本来、言葉を表す記号であり、その記号に絵画的な要素が加わり過ぎれば、書としての価値は相対的に低くなることでしょう。絵画には文字記号の制約がなく、造形的な価値を追及することが出来ます。
展覧会に出かけたりすると、草書体や変体がな、難解な漢字で書かれた作品が展示されています。そんな作品の読みと意味も知りたくなるものです。書作品には釈文という文章が付けられることがあります。これは作品を言葉として理解、鑑賞することを手助けしてくれる説明書きです。展覧会などでは、多くの作品を歩きながら見ていくため、この釈文は一息で読める位の長さが適当です。この釈文のつけ方次第で作品の表現も大きく変わるとさえ言えるでしょう。
光太郎は「書はやっぱり最後の芸術だな」とも述べています。この奥深き書の道を皆さんどう歩まれるか、来春の展覧会が今から楽しみです。
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学ぶ意欲(2022年10月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2022-12-08
何かを学ぼう、修得しようとすれば、相応の気力、体力が必要です。学校では様々な教科があり、成績がついたりしてこれも動機づけとなります。受験では、国語、数学、理科、社会が課されることが多いのですが、書道の実技はあまりお目にかかりません。受験科目であれば、当人のキャリア形成のためですからモチベーションは上がることでしょう。書道の実技は点数化することが難しいのです。上手に書けることイコール前頭葉の発達ではなく、上手に書けるように頭をひねること自体が書を能くすることであり、それは脳の器をなし、他の教科を修得する際の意欲ともなって現われてくるものです。 ―――私はよく、どうしてこんなに書くこと(もちろん手書きのことだ)が好きなのだろうと自分自身に問いかける。知的な作業にはたいてい空しさがつきまとう。ところが目の前に(日曜大工の作業台みたいに)美しい紙と良いペンが置かれているのを見ると、嬉しくなって、その空しさを忘れてしまうことがよくあるのだ。―――これはフランスの言語学者ロラン・バルト(一九一五~一九八○)の言葉です。 手書きと、パソコンでタイピングして文字を書くのとを比べると、手書きの方が前頭葉の活動が活発になります。前頭葉は計画、思考、推論、注意、抑制、情操、創造、学習、意欲といった人間らしい高次元の内容を処理する働きが集中しています。よく考え、手で文字を書くことは、何かを学ぼうとする際の、とってもお得な方法といえるのです。 今月号では年間賞が発表されています。受賞された方々は日々の稽古に意欲的に取り組んでおり、きっと書の場面以外でも、素晴しい活躍をされていることに違いないでしょう。書を学ぶ意義をしっかりと体得され、これからも益々、書を享受されることを祈念しております。
2022
川原世雲
2022-12-08T21:56:21+09:00
―――私はよく、どうしてこんなに書くこと(もちろん手書きのことだ)が好きなのだろうと自分自身に問いかける。知的な作業にはたいてい空しさがつきまとう。ところが目の前に(日曜大工の作業台みたいに)美しい紙と良いペンが置かれているのを見ると、嬉しくなって、その空しさを忘れてしまうことがよくあるのだ。―――これはフランスの言語学者ロラン・バルト(一九一五~一九八○)の言葉です。
手書きと、パソコンでタイピングして文字を書くのとを比べると、手書きの方が前頭葉の活動が活発になります。前頭葉は計画、思考、推論、注意、抑制、情操、創造、学習、意欲といった人間らしい高次元の内容を処理する働きが集中しています。よく考え、手で文字を書くことは、何かを学ぼうとする際の、とってもお得な方法といえるのです。
今月号では年間賞が発表されています。受賞された方々は日々の稽古に意欲的に取り組んでおり、きっと書の場面以外でも、素晴しい活躍をされていることに違いないでしょう。書を学ぶ意義をしっかりと体得され、これからも益々、書を享受されることを祈念しております。
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和様と唐様(2022年9月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2022-09-12-7
一般に和様とは日本風のものを、唐様は中国風のものを指します。書の世界にも和様と唐様があります。「売り家と唐様で書く三代目」の川柳の書のことです。 三筆といわれる嵯峨天皇、空海、橘逸勢の頃は当時、最先端を行く唐の文化の摂取に努めました。空海や橘逸勢は遣唐使船に乗り唐の都へ留学しています。当時の手本として仰がれていたのは王羲之の書です。逸勢の書などは王羲之と大変良く似ています。唐様の書は、例えば王羲之の十七帖にあるように草書でも、紙面に喰い込むかのようにピリッと一点一画がシャープに描かれています。三筆の書にはこうした様式が色濃く反映されています。 和様の創始者は小野道風というのが定説です。道風は藤原佐理、藤原行成と並び三跡と称される能書家です。三筆の頃よりも時代が下り、海外の文化を自国風に消化していったのでしょう。和様は唐様と比べ軟らかく、ゆったりとした書きぶりです。なぜこのようになったかについては、仮名との交ぜ書きが挙げられています。私なりに考えれば、漢字を表意文字としてだけ使用してきた中国にとって、文字はそれ一つ一つが独立して意味をなすものであり、一方、日本の場合、万葉仮名の出現が示すように、これを音としても使います。「山」を「也末」と書くことによって日本の言葉を文字として表します。この時、「山」という一つの意味をなすのに、これを一つ一つ区切るように書くよりも、なるべく一つのまとまりとして書きたくなるものではないかということです。 この推察の是非はさておいて、この和様の書は江戸時代、寺子屋といった庶民の教育の場において主流となります。人々の多くは暮らしの中で普通この和様を以て文字を書きます。唐様の書はというと、儒者や文人といった知識層の中で尊重されていました。前出の川柳は、遊芸で身を持ちくずした三代目が、かっこうをつけて書いたということで、江戸時代における唐様の位置を物語っています。 明治の頃になると、習字の教科書は唐様の書へと変わっていきます。維新以降、列強諸国に追いつけという風潮の中、日本的なものが敬遠され、書の教育はアルファベットというわけにはいかないわけで唐様となったわけです。こうした歴史的な視点から書を考えてみるのも面白いものです。
2022
川原世雲
2022-09-12T23:30:19+09:00
三筆といわれる嵯峨天皇、空海、橘逸勢の頃は当時、最先端を行く唐の文化の摂取に努めました。空海や橘逸勢は遣唐使船に乗り唐の都へ留学しています。当時の手本として仰がれていたのは王羲之の書です。逸勢の書などは王羲之と大変良く似ています。唐様の書は、例えば王羲之の十七帖にあるように草書でも、紙面に喰い込むかのようにピリッと一点一画がシャープに描かれています。三筆の書にはこうした様式が色濃く反映されています。
和様の創始者は小野道風というのが定説です。道風は藤原佐理、藤原行成と並び三跡と称される能書家です。三筆の頃よりも時代が下り、海外の文化を自国風に消化していったのでしょう。和様は唐様と比べ軟らかく、ゆったりとした書きぶりです。なぜこのようになったかについては、仮名との交ぜ書きが挙げられています。私なりに考えれば、漢字を表意文字としてだけ使用してきた中国にとって、文字はそれ一つ一つが独立して意味をなすものであり、一方、日本の場合、万葉仮名の出現が示すように、これを音としても使います。「山」を「也末」と書くことによって日本の言葉を文字として表します。この時、「山」という一つの意味をなすのに、これを一つ一つ区切るように書くよりも、なるべく一つのまとまりとして書きたくなるものではないかということです。
この推察の是非はさておいて、この和様の書は江戸時代、寺子屋といった庶民の教育の場において主流となります。人々の多くは暮らしの中で普通この和様を以て文字を書きます。唐様の書はというと、儒者や文人といった知識層の中で尊重されていました。前出の川柳は、遊芸で身を持ちくずした三代目が、かっこうをつけて書いたということで、江戸時代における唐様の位置を物語っています。
明治の頃になると、習字の教科書は唐様の書へと変わっていきます。維新以降、列強諸国に追いつけという風潮の中、日本的なものが敬遠され、書の教育はアルファベットというわけにはいかないわけで唐様となったわけです。こうした歴史的な視点から書を考えてみるのも面白いものです。
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東京書藝展に参加しよう(2022年8月)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2022-09-12-6
コロナ禍で延期となっていた本会主催の東京書藝展(令和五年四月五日・水~九日・日)の要項が本号と共に配布されました。既に作品の完成予想図が出来上がっているような方もいれば、まだ出品するかどうかも決めていない方もいらっしゃることでしょう。作品の提出期限は来年の二月で、まだかなり時間的なゆとりがあります。日々の稽古や月々の課題、各種試験に取り組むかたわら、ぜひ展覧会への出品作品の制作にも挑戦してみて下さい。 発表を目指して作品を創り上げていく作業は、日頃の練習とはまた違った視点を与えてくれるもので、書の豊かさ、楽しさを理解する契機ともなります。会場となる東京池袋の東京芸術劇場は広々として高い天井の空間があり、長条幅などの大作も引き立ちます。細字作品もお勧めです。細かい文字を最後まで丁寧に書ききることは集中力と忍耐力が必要です。細字作品への注目度は高く、観覧者は自分を書く身に置きかえて感嘆します。また、書は造形性やリズム性を伴う言葉の芸術です。題材とした言葉をいかに表現するかによって、その言葉の伝わり方が大きく異なってきます。書式や書体を先に決めるのもよし、書いてみたい言葉探しから作品制作を始めるのもまたよしです。 学生部(幼年~中学生)については規定課題となります。一生のつきあいとなる手書き文字です。書は大変深い奥行きのある人の行為であり、まず、その型を身につけることは今後の発展のためにも必要です。自在の力を得るためにも格に入ることは大切です。学生部は一般部とは異なり褒賞の制度があります。受賞を目指して全力を尽くして下さい。そうすれば書の道のみならず様々な場面で活躍するチャンスが増えることでしょう。保護者の方もお子さんの成長や努力ぶりを実際に会場で目にし、記念として作品を残しておくことが出来る機会です。ぜひ参加をお待ちしております。 今は夏真盛り。来春の展覧会の事ですが、出品の期限迄はあと六カ月余りです。会員の皆様の作品にお目にかかれることを今から心より楽しみにしております。
2022
川原世雲
2022-09-12T23:29:04+09:00
発表を目指して作品を創り上げていく作業は、日頃の練習とはまた違った視点を与えてくれるもので、書の豊かさ、楽しさを理解する契機ともなります。会場となる東京池袋の東京芸術劇場は広々として高い天井の空間があり、長条幅などの大作も引き立ちます。細字作品もお勧めです。細かい文字を最後まで丁寧に書ききることは集中力と忍耐力が必要です。細字作品への注目度は高く、観覧者は自分を書く身に置きかえて感嘆します。また、書は造形性やリズム性を伴う言葉の芸術です。題材とした言葉をいかに表現するかによって、その言葉の伝わり方が大きく異なってきます。書式や書体を先に決めるのもよし、書いてみたい言葉探しから作品制作を始めるのもまたよしです。
学生部(幼年~中学生)については規定課題となります。一生のつきあいとなる手書き文字です。書は大変深い奥行きのある人の行為であり、まず、その型を身につけることは今後の発展のためにも必要です。自在の力を得るためにも格に入ることは大切です。学生部は一般部とは異なり褒賞の制度があります。受賞を目指して全力を尽くして下さい。そうすれば書の道のみならず様々な場面で活躍するチャンスが増えることでしょう。保護者の方もお子さんの成長や努力ぶりを実際に会場で目にし、記念として作品を残しておくことが出来る機会です。ぜひ参加をお待ちしております。
今は夏真盛り。来春の展覧会の事ですが、出品の期限迄はあと六カ月余りです。会員の皆様の作品にお目にかかれることを今から心より楽しみにしております。
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同音の漢字による書きかえ(2022年7月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2022-09-12-5
「手帖」と「手帳」、「衣裳」と「衣装」、「遺蹟」と「遺跡」。どちらが正しいのでしょうか。これは実はどちらでもよいです。それでは、なぜこのような複数の書き方が存在するのでしょうか。 戦後、GHQは日本の国語改革を推し進めました。その報告書には以下のような一節があります。「現在の日本文字の如く、暇のかかる表現と通信の手段を弄するといった贅沢なことをなし得る近代国家が一つでもあろうか。われわれは日本文字の徹底的改良が必要だと考える。日本文字は学習上恐るべき障碍をなし語学や数学、自然科学や社会科学の学習に振り向ける時間が初等教育の間、日本文字を学びあげるために失われる。」として、GHQは日本の文字のローマ字化をも提案したが、日本側の抵抗もあり漢字かな交じりの日本語は守られることとなりました。 ただ、五万ともいわれる漢字のすべてを日常普通に用いることは一般の生活の上でも負担となるため、昭和二十一年、一八五〇文字の当用漢字が制定されました。この当用漢字は日本の文字をこの漢字ですべて表そう、という制限色の濃いもので、例えば「拳」の文字は当用漢字に含まれないため「けん銃」と表記するなどしました。昭和三十一年には、国語審議会が当用漢字の使用を円滑にするため、当用漢字以外の漢字を含んで構成されている漢語を処理する方法の一つとして、当用漢字の中の同音の文字で置き換えることを示しています。それが冒頭の例です。ちなみに前にある方が本来の漢字であり、後の方が書きかえによるものです。ですからどちらでも正しいことになるわけですが、何が違うのか、といったことを知っておくことは書を学ぶ者にとっては必須です。この書きかえの一覧には「破摧」「蹈襲」「耕耘機」などの書きかえ例なども示されています。これはそれぞれ「破砕」「踏襲」「耕運機」ですが、このあたりになると書きかえの方が当たり前となり、本来の漢字はほとんど見かけない程となっています。 書をすることは文字を美しく、また豊かに表現することにありますが、それと同時に文字に対する理解を深めていくことも大切にしなくてはなりません。
2022
川原世雲
2022-09-12T23:27:48+09:00
戦後、GHQは日本の国語改革を推し進めました。その報告書には以下のような一節があります。「現在の日本文字の如く、暇のかかる表現と通信の手段を弄するといった贅沢なことをなし得る近代国家が一つでもあろうか。われわれは日本文字の徹底的改良が必要だと考える。日本文字は学習上恐るべき障碍をなし語学や数学、自然科学や社会科学の学習に振り向ける時間が初等教育の間、日本文字を学びあげるために失われる。」として、GHQは日本の文字のローマ字化をも提案したが、日本側の抵抗もあり漢字かな交じりの日本語は守られることとなりました。
ただ、五万ともいわれる漢字のすべてを日常普通に用いることは一般の生活の上でも負担となるため、昭和二十一年、一八五〇文字の当用漢字が制定されました。この当用漢字は日本の文字をこの漢字ですべて表そう、という制限色の濃いもので、例えば「拳」の文字は当用漢字に含まれないため「けん銃」と表記するなどしました。昭和三十一年には、国語審議会が当用漢字の使用を円滑にするため、当用漢字以外の漢字を含んで構成されている漢語を処理する方法の一つとして、当用漢字の中の同音の文字で置き換えることを示しています。それが冒頭の例です。ちなみに前にある方が本来の漢字であり、後の方が書きかえによるものです。ですからどちらでも正しいことになるわけですが、何が違うのか、といったことを知っておくことは書を学ぶ者にとっては必須です。この書きかえの一覧には「破摧」「蹈襲」「耕耘機」などの書きかえ例なども示されています。これはそれぞれ「破砕」「踏襲」「耕運機」ですが、このあたりになると書きかえの方が当たり前となり、本来の漢字はほとんど見かけない程となっています。
書をすることは文字を美しく、また豊かに表現することにありますが、それと同時に文字に対する理解を深めていくことも大切にしなくてはなりません。
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六年ぶりの東京書藝展(2022年6月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2022-09-12-4
四年に一度の東京書藝展が、令和五年四月五日(水)~九日(日)の五日間、池袋の東京芸術劇場で開催されます。本来なら令和二年の秋に行う予定でしたが、コロナ禍のため延期となっていました。 本会が主催するこの東京書藝展が四年に一回の開催であるのには理由があります。展覧会書道盛んなりし昭和の中頃、実用に根ざした書を見直そうとしたのが本会の設立の理念の一つでもあります。この「実り」の″実”にもこの思いが託されています。展覧会の出品製作に追われ、本来書を通して涵養すべきことがらがおろそかにならぬよう、四年に一度という期間を置いての開催となったわけです。ただし、この間には、四年に一度の誌上展があります。つまり二年に一度、作品として発表する機会があるということです。 書を学ぶは、まさに自己を厳しく律する修行そのものです。これによって育まれる人の能力については平素私が述べているとおりです。書の学びによって獲得された人の感覚は、再び書となって現れてきます。書の修行がこうした根の部分を養う作業だとしたら、展覧会の作品は、いわば地上に見える枝葉であり花です。作品を美しく着飾る表装、広々とした展覧会場は、まさに書のはれ舞台ともいえます。下を向いて黙々と手を動かす書の場面とは対照的に、展覧会は多くの人が行き交い作品を見上げる雅びな書の場面です。 東京書藝展は本会の会員はどなたでも参加が出来ます。作品制作が初めての方もいらっしゃるでしょう。どのような流れで書を作品としていくかは今後、この実りの案内を参考にしたり、先生と相談をするとよいでしょう。月々の課題や試験に追われる中、展覧会に向けての作品制作は書を学ぶ上で一里塚として残ります。出品作品が多くの観覧者の目にふれることで、また自分の目線が上がっていくのも展覧会ならではの効用です。 来年に行われる展覧会は、四年どころか六年ぶりとなります。コロナ禍で自宅にこもることを強いられただけ、書は自らの奥底により深く根を張ったと考えれば、来年の東京書藝展は今迄以上に充実したものとなることでしょう。会員の皆様のご参加を心よりお待ちしております。
2022
川原世雲
2022-09-12T23:26:46+09:00
本会が主催するこの東京書藝展が四年に一回の開催であるのには理由があります。展覧会書道盛んなりし昭和の中頃、実用に根ざした書を見直そうとしたのが本会の設立の理念の一つでもあります。この「実り」の″実”にもこの思いが託されています。展覧会の出品製作に追われ、本来書を通して涵養すべきことがらがおろそかにならぬよう、四年に一度という期間を置いての開催となったわけです。ただし、この間には、四年に一度の誌上展があります。つまり二年に一度、作品として発表する機会があるということです。
書を学ぶは、まさに自己を厳しく律する修行そのものです。これによって育まれる人の能力については平素私が述べているとおりです。書の学びによって獲得された人の感覚は、再び書となって現れてきます。書の修行がこうした根の部分を養う作業だとしたら、展覧会の作品は、いわば地上に見える枝葉であり花です。作品を美しく着飾る表装、広々とした展覧会場は、まさに書のはれ舞台ともいえます。下を向いて黙々と手を動かす書の場面とは対照的に、展覧会は多くの人が行き交い作品を見上げる雅びな書の場面です。
東京書藝展は本会の会員はどなたでも参加が出来ます。作品制作が初めての方もいらっしゃるでしょう。どのような流れで書を作品としていくかは今後、この実りの案内を参考にしたり、先生と相談をするとよいでしょう。月々の課題や試験に追われる中、展覧会に向けての作品制作は書を学ぶ上で一里塚として残ります。出品作品が多くの観覧者の目にふれることで、また自分の目線が上がっていくのも展覧会ならではの効用です。
来年に行われる展覧会は、四年どころか六年ぶりとなります。コロナ禍で自宅にこもることを強いられただけ、書は自らの奥底により深く根を張ったと考えれば、来年の東京書藝展は今迄以上に充実したものとなることでしょう。会員の皆様のご参加を心よりお待ちしております。
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補点とは(2022年5月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2022-09-12-3
「神」や「舞」といった文字の右下にひとつ点が打たれているのを見たことがありませんか。この点は一般に「補点」と呼ばれていますが、他にも「補空」「リズム点」「おしゃれ点」などと呼ばれることもあります。補点は「補空」といわれるように文字の空隙を埋めたり、「リズム点」の言葉どおりリズムを整える役割があります。この補点は篆書には見られません。この書体が使われていた頃は、まだ文字にリズムを加えて書くということはしませんでした。篆隷に筆順なし、という言葉があります。例えば「方」の文字を書くとしましょう。正しい筆順は最後に左下の画を払います。この筆順であれば「トン・トン・トン・トン・スー」というリズムで書けますが、誤った筆順とされる最後に右下の画をはねる書き方だと「トン・トン・トン・トン・トン」と、一本調子になります。 習字において筆順を正しく書くことは大切です。リズムよく書くことは文字を美しく書くことに通じます。例えば文章に書きおろす際に、「です」「です」「です」と続いたら、今度は「ます」としたくなるもので、「た」「た」「た」ときたら「である」と調子を整えたくなるものです。文字を書く際にもこうした調子を整えることは身らの内なるものを他に伝えるためにも重要です。 篆書体には補点らしきものは見られませんが、隷書体が書かれた時代の後期の頃には補点が散見されるようになります。レタリングのように非連続の書体であった篆書体にはリズム点の必要がなかったからです。隷書体が書かれるようになると徐々に連続性が高まり、こうしたリズム点が出現してくるわけです。例えば「土」の文字に点が加わった「圡」を見たことはありませんか。これも補点です。もちろん「土」も「圡」も読みや意味はまったく同じです。私の知り合いにも圡方さんがいます。 たかが点一つの話しですが、この補点の存在は、現代の書が形だけではないことを示しています。言語性、手の巧緻な動き、造形性、それにリズム性を並列的に処理することは手書き以外、人間の他の活動には見られません。文字を打つことが日常となる中において、こうした側面から考えてみると、また手書き教育の意義は明らかになることと思います。
2022
川原世雲
2022-09-12T23:25:47+09:00
習字において筆順を正しく書くことは大切です。リズムよく書くことは文字を美しく書くことに通じます。例えば文章に書きおろす際に、「です」「です」「です」と続いたら、今度は「ます」としたくなるもので、「た」「た」「た」ときたら「である」と調子を整えたくなるものです。文字を書く際にもこうした調子を整えることは身らの内なるものを他に伝えるためにも重要です。
篆書体には補点らしきものは見られませんが、隷書体が書かれた時代の後期の頃には補点が散見されるようになります。レタリングのように非連続の書体であった篆書体にはリズム点の必要がなかったからです。隷書体が書かれるようになると徐々に連続性が高まり、こうしたリズム点が出現してくるわけです。例えば「土」の文字に点が加わった「圡」を見たことはありませんか。これも補点です。もちろん「土」も「圡」も読みや意味はまったく同じです。私の知り合いにも圡方さんがいます。
たかが点一つの話しですが、この補点の存在は、現代の書が形だけではないことを示しています。言語性、手の巧緻な動き、造形性、それにリズム性を並列的に処理することは手書き以外、人間の他の活動には見られません。文字を打つことが日常となる中において、こうした側面から考えてみると、また手書き教育の意義は明らかになることと思います。
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海外の手書き教育と日本の習字(2022年4月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2022-09-12-2
「習字」というと、日本的な学習風景が想い起こされるかもしれません。海外における「手書き」は、例えばイギリスならハンドライティングです。このハンドライティングもCursive writingとManuscript writingに大別されます。前者は「筆記体」で、アルファベット同士が互いにつながりを持って書ける形です。後者は「ブロック体」「活字体」で、書物などに印刷される形です。欧米ではこの二つの書体を両方学ぶことが一般的です。 イギリスの小学校は日本と同じ六学年制です。日本の学習指導要領にあたるThe National Curriculum in Englandでは、ハンドライティングに関する学習内容が示されています。第一学年では「正しい姿勢で座り、鉛筆を望ましい持ち方で持つ」「頻繁にかつ個別に直接指導を要する」「筆記具(鉛筆、ペン)の大きさは、児童の手にとって大きすぎないようにする」「児童にとって望ましい筆記具であれば望ましい持ち方が保持でき、悪い習慣を避けられる」……等々です。こうした内容、注記が学年ごとに詳細に記述されています。第二学年になれば「正しい字形の復習や練習を頻繁に行う」、第三・四学年では「続け書きができるようになる」とあります。第五・六学年ともなれば「読み易く自然な運筆で、速度を上げて書ける」といった内容まで加わってきます。こうしてみると、日本の書き方教育の指導内容と大きな違いがあるようには感じられません。イギリスにおける入門期の手書き教育は日本の寺子屋教育と似ています。基本点画の練習とはいえ、それは線遊びに近いものです。「滑らかで流動的な線を書くことに役立つ」ということで、クルクルとバネのような形の線を描きます。脳科学の視点からすれば、手の連続した動きは、脳の言語野の活動を促すわけで、脳が形を言葉として認識する準備となります。 いわゆる「習字」は欧米にもあるわけです。アルファベット圏の手書き重視の教育を顧みれば、日本の文字を手書きする意味について考えを深める機は熟していると思います。
2022
川原世雲
2022-09-12T23:24:34+09:00
イギリスの小学校は日本と同じ六学年制です。日本の学習指導要領にあたるThe National Curriculum in Englandでは、ハンドライティングに関する学習内容が示されています。第一学年では「正しい姿勢で座り、鉛筆を望ましい持ち方で持つ」「頻繁にかつ個別に直接指導を要する」「筆記具(鉛筆、ペン)の大きさは、児童の手にとって大きすぎないようにする」「児童にとって望ましい筆記具であれば望ましい持ち方が保持でき、悪い習慣を避けられる」……等々です。こうした内容、注記が学年ごとに詳細に記述されています。第二学年になれば「正しい字形の復習や練習を頻繁に行う」、第三・四学年では「続け書きができるようになる」とあります。第五・六学年ともなれば「読み易く自然な運筆で、速度を上げて書ける」といった内容まで加わってきます。こうしてみると、日本の書き方教育の指導内容と大きな違いがあるようには感じられません。イギリスにおける入門期の手書き教育は日本の寺子屋教育と似ています。基本点画の練習とはいえ、それは線遊びに近いものです。「滑らかで流動的な線を書くことに役立つ」ということで、クルクルとバネのような形の線を描きます。脳科学の視点からすれば、手の連続した動きは、脳の言語野の活動を促すわけで、脳が形を言葉として認識する準備となります。
いわゆる「習字」は欧米にもあるわけです。アルファベット圏の手書き重視の教育を顧みれば、日本の文字を手書きする意味について考えを深める機は熟していると思います。
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落款印について(2022年3月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2022-09-12-1
作品を書いた後、作品の端に年月日や詩文の作品名、題名、自分の名前などを署し、印を押して完成の意を表します。学生部の作品にも、学年や名前を書き、完成を示します。これらを総称して落款と呼びます。 落款という語は、「落成款識」を略した言葉との説があります。一般に「落成」とは書画の完成を意味し、「款識」は署名捺印のことを指します。「款識」は主に周時代につくられた古銅器や祭器に鋳込まれた文字で、「款」は凹なる文字、「識」は凸なる文字のことを意味します。 落款に使われる印は古くから、中国で信を示すために用いられてきましたが、日本では、現存する中世以前の書には見られません。中世より明との貿易がさかんになり、宋・元・明の書形式が伝えられてから、日本で中国式の落款や押印がされるようになったのです。 さて、近年、内閣府により「押印廃止プロジェクト」が進められています。身分証明のために印を使用する国は、現在の世界では日本のみといえるほど、珍しいようです。しかし書画の世界では、押印廃止の潮流は、おそらく無いでしょう。押印は完成の意味合いのほかに、作品への装飾的な要素が多分に含まれるためです。印と書の相互関係は作品全体の出来を大きく左右します。 落款に使用する印は姓名印(主として白文)、雅号印(主として朱文)、堂号印(書斎の室名。主として朱文)、引首印や押脚印などです。成語などを用い作品の上部(頭の部分)に押すのは引首印、下部に押すのは押脚印と呼ばれるなど、押す位置にもゆるやかな決まりがあります。印の大きさは、一般的には落款の文字よりもやや小さめがよいでしょう。しかし絶対ではなく、本文や落款の文字との調和が重要視されます。 今月号の「実り」には、毎年恒例の学生部の書き初め作品が掲載されています。作品に調和するように年号や名前が書けているか、印は使用せずともよいですが、押してある場合には作品に対しどのような効果があるか、それもみどころの一つです。しかし学生の作品ですから、難しく厳しく考えるのではなく、落款に興味を持つきっかけになれば良いと思います。
2022
川原世雲
2022-09-12T23:23:36+09:00
落款という語は、「落成款識」を略した言葉との説があります。一般に「落成」とは書画の完成を意味し、「款識」は署名捺印のことを指します。「款識」は主に周時代につくられた古銅器や祭器に鋳込まれた文字で、「款」は凹なる文字、「識」は凸なる文字のことを意味します。
落款に使われる印は古くから、中国で信を示すために用いられてきましたが、日本では、現存する中世以前の書には見られません。中世より明との貿易がさかんになり、宋・元・明の書形式が伝えられてから、日本で中国式の落款や押印がされるようになったのです。
さて、近年、内閣府により「押印廃止プロジェクト」が進められています。身分証明のために印を使用する国は、現在の世界では日本のみといえるほど、珍しいようです。しかし書画の世界では、押印廃止の潮流は、おそらく無いでしょう。押印は完成の意味合いのほかに、作品への装飾的な要素が多分に含まれるためです。印と書の相互関係は作品全体の出来を大きく左右します。
落款に使用する印は姓名印(主として白文)、雅号印(主として朱文)、堂号印(書斎の室名。主として朱文)、引首印や押脚印などです。成語などを用い作品の上部(頭の部分)に押すのは引首印、下部に押すのは押脚印と呼ばれるなど、押す位置にもゆるやかな決まりがあります。印の大きさは、一般的には落款の文字よりもやや小さめがよいでしょう。しかし絶対ではなく、本文や落款の文字との調和が重要視されます。
今月号の「実り」には、毎年恒例の学生部の書き初め作品が掲載されています。作品に調和するように年号や名前が書けているか、印は使用せずともよいですが、押してある場合には作品に対しどのような効果があるか、それもみどころの一つです。しかし学生の作品ですから、難しく厳しく考えるのではなく、落款に興味を持つきっかけになれば良いと思います。
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片方の手を使う手書きか 両方の手を使うタイピングか(2022年2月号)
https://k-seiun.blog.ss-blog.jp/2022-09-12
脳の右半球は、体の左部分からの情報を受けとり、これをコントロールします。また左半球は体の右部分からの情報を受け、これをコントロールします。これを「交叉支配の原則」といいます。 手書きとタイピングの脳の賦活実験によれば、右効きの人が手書きした場合、タイピングより手書きの方が左半球の活動が活発になります。これは手書きの方がタイピングより複雑な感覚や運動を処理するからと考えられます。一方、右半球の方はどうでしょうか。右手のみで行う手書きよりも両手を使うタイピングの方が右半球の活動が高まると思いきや、実際には手書きの方が脳の右半球の活動も活発となります。 手書きする際、ほとんど使わない左手を支配する右半球がなぜタイピングよりも賦活が高まるかについては二通りの説明が出来ます。まず第一に左右脳は脳梁によってつながれており、左右の脳が共調して働いているという点です。つまり、左半球の活動が高まれば、その反対側の右半球も活動を始めるということです。第二に、右半球は主に、空間的な認知と構成の役割を担っているという点です。手書きはタイピングと比べ字形や筆順を考慮しなくてはならないため、この空間構成の要素が影響しているとも考えられます。いずれにせよ両手を使うタイピングよりも手書きの方が脳の左右両半球共に活発になることを考えると、教育の上で手書きすることの意義はまた明らかになります。 ノルウェー科学技術大学では、二〇二〇年に脳波計を用いた手書きとタイピングの実験を行い、これも同じような結果を導き出しています。社会におけるICTの存在価値を認めつつ、手書きすることが脳の様々な領域とつながりを促す行為であり、教育上重要であるとまとめています。今後、これらの研究の積み重ねが高度に進化した科学と人間がどうつき合っていけばよいかという課題に答えを導き出してくれるかもしれませんし、また書をする私たちもこうした事実と真摯に向き合っていくべきでしょう。
2022
川原世雲
2022-09-12T23:22:29+09:00
手書きとタイピングの脳の賦活実験によれば、右効きの人が手書きした場合、タイピングより手書きの方が左半球の活動が活発になります。これは手書きの方がタイピングより複雑な感覚や運動を処理するからと考えられます。一方、右半球の方はどうでしょうか。右手のみで行う手書きよりも両手を使うタイピングの方が右半球の活動が高まると思いきや、実際には手書きの方が脳の右半球の活動も活発となります。
手書きする際、ほとんど使わない左手を支配する右半球がなぜタイピングよりも賦活が高まるかについては二通りの説明が出来ます。まず第一に左右脳は脳梁によってつながれており、左右の脳が共調して働いているという点です。つまり、左半球の活動が高まれば、その反対側の右半球も活動を始めるということです。第二に、右半球は主に、空間的な認知と構成の役割を担っているという点です。手書きはタイピングと比べ字形や筆順を考慮しなくてはならないため、この空間構成の要素が影響しているとも考えられます。いずれにせよ両手を使うタイピングよりも手書きの方が脳の左右両半球共に活発になることを考えると、教育の上で手書きすることの意義はまた明らかになります。
ノルウェー科学技術大学では、二〇二〇年に脳波計を用いた手書きとタイピングの実験を行い、これも同じような結果を導き出しています。社会におけるICTの存在価値を認めつつ、手書きすることが脳の様々な領域とつながりを促す行為であり、教育上重要であるとまとめています。今後、これらの研究の積み重ねが高度に進化した科学と人間がどうつき合っていけばよいかという課題に答えを導き出してくれるかもしれませんし、また書をする私たちもこうした事実と真摯に向き合っていくべきでしょう。
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