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思考を深める(2023年6月号) [2023]

 人工知能の開発が進むにつれて、それが人の暮らしを豊かにしてくれるものかどうか疑問符がつき始めています。教育の場面では人の知能を育もうとしているのですから、それを他の人や機械にしてもらえば、その人の発達を妨げかねません。便利な機械は社会の欠かすことの出来ない重要なインフラとなっており、これなしに現代の生活は成り立たないでしょう。便利すぎる機械に依存することなく、上手に使いこなしていくためには、まずは使う側個々人の「教育」が必要になってくるはずです。 
 対話型AI(チャットGPT)は膨大なデータを集めて、そこから確率に基づいて答えを出すだけ機械であり、「考えて」いるわけではありません。また大量の情報の処理過程では間違いが起こる可性が指摘されています。こうした間違いが起こらないように、機械の情報処理の精度が極限にまで上れば上がる程、既に自分の頭で考えないことに慣れきった人は、機械の出した結果の明らかな間違い気付かなくなるかも知れません。現在、この人工知能とどう向き合っていくか世界全体がその対応をられています。
 身近な例では、学校でのレポート課題です。課題を入力すれば答えを作ってくれるのですから、それこそ自分で作ったはずのレポートの内容を知らなくても課題をこなすことが出来てしまいます。出典の明記された確かな文献を手がかりにして、それをどう自分なりに構成していくか考えるのがレポート作成の基本です。こうした手続きをスキップしてしまったら、頭を鍛えるという教育そのものが行われなくなってしまいます。
 このような懸念が現実のものとなってきている昨今、レポートを手書きで提出するよう求める先生もいるそうです。何だかんだといってコピペがはびこるのだから、せめて自分の手で書いて頭を使ってもらおう、という諦観です。手書きは脳の様々な領域を並列的に動かす行為です。このような時代だからこそ、教育としての書と向き合うことの意味について考えなくてはならないと思います。

東京書藝展のこれから(2023年5月号) [2023]

 六年ぶりに行われた本会主催の東京書藝展が去る四月九日(日)無事終了いたしました。実行委員長の塚原月華先生をはじめ役員の先生方、事務スタッフ、お手伝いいただいた方、またご観覧にお越しいただいた方々、皆様のおかげで素晴らしい展覧会になったこと厚く御礼申し上げます。
 書藝展の名のとおり、書をテーマに工夫を凝らした実に様々な作品が出品されていました。個性的な作品も全体の中で見事に調和しており、作品どうしが互いに引き立て合う、そんな展覧会になったかと思います。
 一つの書道団体の展覧会としては洗練された完成度の高い仕上がりになったと思います。ただ、それだけに今後これ以上のものを求めるとしたら、会期や会場、出品形態など多角的に見直していくことも必要かと感じました。
 お気づきになった方もいらっしゃるかと思いますが、ギャラリー2の入口の脇に「書字と脳の研究」のコーナーを設けました。学生部の展示スペースとは趣きを異にしていましたが、一般部にせよ、学生部にせよ、本会の書の理念は、こうした学際性の高い科学的な研究によって支えられており、本展はそれを具現化したとも言えるのです。会員の皆様が学習環境を確かなものとするためにも、色々な分野の方々と協力し、文字を手書きする意味を研究していくつもりです。
 展覧会期間中は、来場する方々を出迎えたく出来得る限り会場に居るようにしたつもりなのですが、すれ違いでご挨拶が叶わなかった方々には、この場を借りてお詫び申し上げます。それでも多くの方々と拝眉の機会に恵まれましたこと嬉しく思っておりす。本当に久しぶりにお目にかかる方もおり、こうした側面からも有意な展覧会であったと思います。
 書教育は今、技能習得から高次脳機能の獲得、言い換えれば人間形成へと大きく舵を切ろうとしています。激変する社会環境の中で書を能くすることは益々重要性を高めていくことでしょう。皆様のこれからのご健筆を心より祈念しております。

日本の文字文化の奥深さに触れよう(2023年4月号) [2023]

 授業の中で過去の文献を声に出して読む場面で、その文を学生が読めないことがあります。これは戦後およそ四百文字程度の漢字が簡略化され、もとの形が旧字体となったからで、この七十余年前に使われていた漢字を学習する機会がなかったことに起因するものです。
 先日行われた大学入試共通テストの日本史に、筆文字で「蘭學」と書かれた設問がありました。日本史を学んでいく際に、こうした旧字体もしくは書写体についての知識は必須であるわけです。他方、英語圏は一六〇〇年頃のシェイクスピア文学でも現代の英語の知識があれば読むことが出来ます。日本の文字文化の分断は歴史の学習上大きな障壁とさえなっているともいえます。
 戦後、日本の文字が簡略化された理由は、まずGHQの意向があります。米・イリノイ大学総長ジョージ・D・ストダード博士を団長とする教育使節団は「現在の日本の文字の如く、暇のかかる表現と通信の手段を弄するといった贅沢なことをなし得る近代国家が一つでもあろうか。われわれは日本文字の徹底的改良が必要だと考える。」と述べています。また国内でも印刷の精度が当時低かったため、旧字体は繁体で文字がつぶれ易いということから出版業界などからも簡略化を歓迎したといわれます。
 後に、文字の簡略化を進めた東京大学言語学教授の服部四郎は昭和三十五年、以下のように語っています。「こう字が易しくなれば、つまりそれだけ学習の時間が負担が軽くなって、ほかのほうの学科に振向けることが出来る。学習の時間を取れる。そう簡単に考えておりましたが、実は人間は字が易しくなるとなまけるものだということに気づいたわけであります。」四郎は、思考の足腰、すなわち脳の機能を鍛えるためには、相応の文字の負荷をかけることが必要であることに気がついたということです。
 旧字体、書写体など、書を学ぶ上ではこうした難しい文字を使いこなしていかなくてはなりません。これはとりも直さず日本を深く知ることであり、それこそ贅沢な学びです。この豊かな日本の資源により多くの人が気づけば、この国の将来も再び輝きをとり戻すことと私は考えています。

東京書藝展を楽しもう(2023年3月号) [2023]


 六年ぶりとなる本会主催の東京書藝展の開催が目前に迫ってきました。出品された会員の方々は作品の提出も終わり、ほっとされていることでしょう。お疲れ様でした。
 展覧会には出品のいかんにかかわらず、どなたでも入場することが出来ます。教室の仲間、ご家族、ご友人など多勢連れだってお出かけ下さい。
 学生部は規定の課題に取り組みました。書作品制作に懸命に取り組むことは、脳の成長に有益です。それぞれ素晴らしい作品です。心より拍手を送りたいと思います。また学生部の会員の皆さんは、大人の作品も鑑賞してみて下さい。難しい文字が沢山並んでいますが、興味を持った作品は、先生や保護者の方に、その読みや意味を聞いてみるのもよいでしょう。将来は自分が出品するようになるかも知れません。
 師範・準師範部の作品は大作、力作揃いです。書の完成度のみならず、紙や墨の吟味、印、表装、そして会場との調和を図り、総合芸術の域まで書を高めています。確かな教養と、地道な積み重ねを要する技芸を兼ね備えなければ成し得ない書芸術です。勘やセンスだけではどうにもならない奥深さが書の魅力です。
 一般部では、今回初めて出品したという方も少なくないようです。先生と相談しながら、一つ一つ積み上げるように真摯に創り上げた作品は、鑑賞者に訴えるものが大きいものです。今回、出品されなかった方は、次回は挑戦してみて下さい。月々の課題制作とは異なり、自らの稽古の証として図録や展覧会の記憶と共に作品は残るからです。
 会場となる東京芸術劇場は、池袋駅前にあり、交通至便で、また食事や買い物をするお店も充実しています。書に興味のない方も誘って、春の一日、芸術の話題に花を開かせるのもよいでしょう。コロナ禍を越え、久しぶりの展覧会となります。皆様ぜひ東京書藝展を楽しんでください。

世界の手書きと脳の研究(2023年2月号) [2023]

 「手書きは書き言葉を学び、使用する最も一般的な方法である。どのような書体であれ、文字を手書きするということは、いくつかの認知・運動機能を必要とする。この非常に特殊な能力は、複雑な神経基盤に支えられている。」
――この文章は、二〇一三年、18の手書きの脳神経画像を分析したフランスとスイスの共同研究からなる論文の中の言葉です。またこの論文では手書きすることに直接的に関心を持つ画像研究の数が比較的少ないと述べています。さらに興味深い点に、アルファベット文化圏の研究者でありながら、アルファベットの研究のみならず音節文字と表意文字の例として、日本語の仮名と漢字を挙げています。
 カナダの研究者は、人間が絵を描く能力は数万年前からあるのに対し、文字を書く能力は数千年前からであり、識字が普及したのはごく最近のことであるとし、描くことと書くことの間に脳において大きな認知システムの違いがあることを示しています。
 アメリカの研究者はユニークな実験を行っています。効き手の右手、左手、右足で書く、それからジグザグに書く、叩く(タッピング)など、それらの脳の活動のようすをMRIで観察しています。結果、効き手の右手を使って文字を書く行為は、習熟していない左手を使ったり足を使って書いたりすることよりも脳の活動が活発化し、より大きな脳内ネットワークを動員することが分かったとしています。また、手のジグザグ運動や叩くといった運動と比べても、より多くの脳領域を使用していると指摘しています。
 オランダの研究者は、効き手である右手とそうではない左手で書くときの脳の活動の違いのようすを、幾何学図形を描いたり鉛筆でタッピングしたりするのと比較しています。これもMRIを使った実験ですが、手書きの脳内ネットワークの解明に迫っています。
 手書きすることが少なくなったという人が増えているようです。世界はすでに手書きの時代に動き始めていることを時に感じることがあります。豊かな手書き文化は日本の力そのものであると私は考えています。

世界が注目する手書き(2023年1月号) [2023]

 日本語のタイピング化が一般に普及しておよそ三十年が経ちました。難しい日本の文字を手書きせずとも文章を作れる便利な機械を使いこなすことは今や日常に必要なスキルとさえなっています。一方、世界を見わたすと、ここ数年、手書きについての重要な研究が増えてきています。
 これらの研究は主にMRIなどの脳の活動を観察する機械によるもので、それらのほとんどが米国、カナダ、欧米各国の研究です。これらの研究の成果は英語で綴られており、興味がなければ、一般の日本人にとっては縁遠いものです。書字に関する研究者の一人としては、このような論文に目を通すことは必須です。これら科学論文は、「概要」「はじめに」「方法」「対象」「結果」「考察」と、型が決まっており、読み方が分かれば自分の研究が今、どの地点にあり、新たな知見として何を加えようとしているのかの位置づけが出来ます。日本がこの分野において研究が遅れている理由に、そもそも言語の中のとりわけ書字を領域としている研究者が非常に少ないことがあります。小学校においては毛筆習字が必修で、上代の頃よりの豊かな書字文化を誇る日本において、なぜここまで手書きについて研究が進まないのか不思議です。もう一点、例えば「うさぎ」とタイピングしようとします。ローマ字入力なら「USAGI」と音を打てばおしまいですが、英語なら「RABBIT」と打つか変換しなければなりません。中国語でもこれらをすべて漢字に変換しなければなりません。こうしたタイピングのし易さも日本での手書きの研究が進まない原因なのではと考えています。
 海外の研究に目を向けると、例えば足に筆記具をはさんで書かせたり、ただ円を描いたり、指で机を叩いたりするのと、効き手で文字を書いたりする違いを観察したりしています。文字を書くには、その文字をどう書くか頭の中で計画しなくてはなりません。タイピングなら、描く文字と指の動きが一致しないし、紙面に適度な筆圧で書くという調整も不要です。これら海外の機械を使った研究と失書症などの研究により手で文字を書くことは非常に多くの脳の領域を同時に使用することがわかってきています。ただし、このネットワークが互いにどのように作用しているのかは、これからの研究に委ねられるところです。
 書字の研究者として、日本の文字を書く難しさと同時にその奥深さを日々感じています。日本の文字を手書きすることは日本の力の源であると私は確信しています。

印を使いこなす(2022年12月号) [2022]

書の作品を仕上げるのに印は重要な役割を果たします。一般には、自らの名を書いたらその下に落款印を押し、作品の制作者を明らかにします。白と黒のみの世界の中に朱色が入ることにより、美的なアクセントが加わります。印の用い方次第で、作品の出来映えも大きく変わってくるとさえいえます。
 落款印には姓名印と雅号印の二顆を押すのが通例です。姓名印には普通白文印(文字が白くなる印)を、雅号印には朱文印(文字が朱になる印)を使います。白文印は、重量感のある威厳にあふれた作りが特徴です。白文印は、秦、漢の時代には、官位や権利、所有を表すものとして盛んに用いられました。日本で発見された金印(漢委奴国王)も白文印です。秦や漢の時代に白文印が制度的に使われた理由に、この頃はまだ紙ではなく、布や木片、竹などが文書を記す材料とされていたことがあるのではないかと思います。表面がきれいな平面ではないため、白文印の方が押印に適していたと考えられるからです。
 私も押印する際、白文印はやわらかい印褥(印を押す時に下に引く台)を使いますが、朱文印の場合は線がきれいに出なかったり、印の谷の部分が紙面に写り込んでしまうことがあるため、ガラス板に薄い紙を一、二枚乗せて押しています。朱文印は白文印とは異なり繊細な表現が特徴です。風雅さを重んじる文墨の世界では、雅号印は朱文印を用いることが一般的です。正統で格式の高い姓名印を上に押し、文墨の世界の住人である証として朱文印をその下に押すことは理に適っているといえます。
 書作品の掲載された書籍や図録などを眺めていると印の使い方で作品の見方が違ってくることがあります。ただし、印はどちらかというと作品の脇役的な存在で、その印影を印刷された書面で細部まで鑑賞することは難しいものです。そのため私は博物館や展覧会で作品を見る際には印のようすをよく観察するようにしています。その押し方、色あいまでが実物からは感じとれるからです。印に対する知識は、書の力量と書をする愉しみを増やしてくれること間違いないでしょう。

言葉を書くということ(2022年11月号) [2022]


 文字を書く時と、絵を描く時の脳の活動の違いを調べた興味深い実験があります。これは脳の活動を測定するNIRSという機械を用いたものです。まず、線画で描かれた絵のカードを次々と提示して被験者はその形を写していきます。そして今度は、はさみや紙、えんぴつなどの絵のカードを次々と提示し、その絵が何であるか文字で書いていきます。そして再び線画で描かれた絵のカードに戻り、これを繰り返していきます。NIRSの計測によれば、線画を描いている時は主に脳の右半球が活動し、文字を書いている時は、脳の右半球に加え、言語を司る左半球も同時に活動を始めるという結果が得られました。手で文字を書く際には脳の中で使用しない領域がないと思われる程だ、と指摘する脳科学者もいます。
 文字には形と読みと意味の三つの要件があります。絵を描くのと比べ、文字には読みや意味といった要素が加わってくるため、脳はより広い領域を同時に使用せざるを得なくなります。高村光太郎(一八八三~一九五六)は、詩人であり彫刻家でもあります。光太郎は、その著書『書の深淵―最後の書論―』の中で「書をみるのはたのしい。画は見飽きることもあるが、書はいくら見ていてもあきない。またいくどくり返してみてもそのたびに新しく感ずる。」と述べています。文字は本来、言葉を表す記号であり、その記号に絵画的な要素が加わり過ぎれば、書としての価値は相対的に低くなることでしょう。絵画には文字記号の制約がなく、造形的な価値を追及することが出来ます。
 展覧会に出かけたりすると、草書体や変体がな、難解な漢字で書かれた作品が展示されています。そんな作品の読みと意味も知りたくなるものです。書作品には釈文という文章が付けられることがあります。これは作品を言葉として理解、鑑賞することを手助けしてくれる説明書きです。展覧会などでは、多くの作品を歩きながら見ていくため、この釈文は一息で読める位の長さが適当です。この釈文のつけ方次第で作品の表現も大きく変わるとさえ言えるでしょう。
 光太郎は「書はやっぱり最後の芸術だな」とも述べています。この奥深き書の道を皆さんどう歩まれるか、来春の展覧会が今から楽しみです。

学ぶ意欲(2022年10月号) [2022]

 何かを学ぼう、修得しようとすれば、相応の気力、体力が必要です。学校では様々な教科があり、成績がついたりしてこれも動機づけとなります。受験では、国語、数学、理科、社会が課されることが多いのですが、書道の実技はあまりお目にかかりません。受験科目であれば、当人のキャリア形成のためですからモチベーションは上がることでしょう。書道の実技は点数化することが難しいのです。上手に書けることイコール前頭葉の発達ではなく、上手に書けるように頭をひねること自体が書を能くすることであり、それは脳の器をなし、他の教科を修得する際の意欲ともなって現われてくるものです。
 ―――私はよく、どうしてこんなに書くこと(もちろん手書きのことだ)が好きなのだろうと自分自身に問いかける。知的な作業にはたいてい空しさがつきまとう。ところが目の前に(日曜大工の作業台みたいに)美しい紙と良いペンが置かれているのを見ると、嬉しくなって、その空しさを忘れてしまうことがよくあるのだ。―――これはフランスの言語学者ロラン・バルト(一九一五~一九八○)の言葉です。
 手書きと、パソコンでタイピングして文字を書くのとを比べると、手書きの方が前頭葉の活動が活発になります。前頭葉は計画、思考、推論、注意、抑制、情操、創造、学習、意欲といった人間らしい高次元の内容を処理する働きが集中しています。よく考え、手で文字を書くことは、何かを学ぼうとする際の、とってもお得な方法といえるのです。
 今月号では年間賞が発表されています。受賞された方々は日々の稽古に意欲的に取り組んでおり、きっと書の場面以外でも、素晴しい活躍をされていることに違いないでしょう。書を学ぶ意義をしっかりと体得され、これからも益々、書を享受されることを祈念しております。

和様と唐様(2022年9月号) [2022]

 一般に和様とは日本風のものを、唐様は中国風のものを指します。書の世界にも和様と唐様があります。「売り家と唐様で書く三代目」の川柳の書のことです。
 三筆といわれる嵯峨天皇、空海、橘逸勢の頃は当時、最先端を行く唐の文化の摂取に努めました。空海や橘逸勢は遣唐使船に乗り唐の都へ留学しています。当時の手本として仰がれていたのは王羲之の書です。逸勢の書などは王羲之と大変良く似ています。唐様の書は、例えば王羲之の十七帖にあるように草書でも、紙面に喰い込むかのようにピリッと一点一画がシャープに描かれています。三筆の書にはこうした様式が色濃く反映されています。
 和様の創始者は小野道風というのが定説です。道風は藤原佐理、藤原行成と並び三跡と称される能書家です。三筆の頃よりも時代が下り、海外の文化を自国風に消化していったのでしょう。和様は唐様と比べ軟らかく、ゆったりとした書きぶりです。なぜこのようになったかについては、仮名との交ぜ書きが挙げられています。私なりに考えれば、漢字を表意文字としてだけ使用してきた中国にとって、文字はそれ一つ一つが独立して意味をなすものであり、一方、日本の場合、万葉仮名の出現が示すように、これを音としても使います。「山」を「也末」と書くことによって日本の言葉を文字として表します。この時、「山」という一つの意味をなすのに、これを一つ一つ区切るように書くよりも、なるべく一つのまとまりとして書きたくなるものではないかということです。
 この推察の是非はさておいて、この和様の書は江戸時代、寺子屋といった庶民の教育の場において主流となります。人々の多くは暮らしの中で普通この和様を以て文字を書きます。唐様の書はというと、儒者や文人といった知識層の中で尊重されていました。前出の川柳は、遊芸で身を持ちくずした三代目が、かっこうをつけて書いたということで、江戸時代における唐様の位置を物語っています。
 明治の頃になると、習字の教科書は唐様の書へと変わっていきます。維新以降、列強諸国に追いつけという風潮の中、日本的なものが敬遠され、書の教育はアルファベットというわけにはいかないわけで唐様となったわけです。こうした歴史的な視点から書を考えてみるのも面白いものです。