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ダ・ヴィンチの鏡文字(2014年8月号) [2014]

レオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二~一五一九)は、イタリアの画家であり、また彫刻家、建築家、音楽家、技師、科学者で、ルネサンス時代を代表する天才です。ダ・ヴィンチは、数多くの手稿を残しており、それらが鏡文字で書かれていたということはよく知られています。文字を習いたての子供が「あ」や「お」の文字を、手本があるのにもかかわらず、器用に?逆方向に書くのを見かけたことはありませんか。保護者の方々は、なんで同じように書けないのか、とやきもきするようですが、これは脳の中に左右を認識する領域があり、まだそれが未熟なために起こる現象で、成長するにつれて解決するので、どうかご安心下さい。
 人類が文字を使い始めた三千年程前、古代文字である甲骨文字は、左右の別がありませんでした。左右逆向きをしていても、つまり鏡文字でも、同じ文字として使われていたということです。古代の人だって右に行くか左に行くかをまちがえたら、それこそ生死を分ける大事になったことでしょうから、右と左が分からなかったわけではありません。左右認知という脳の領域を用いながら、手の細かい運動、造形、言語活動を同時に行うことが、まだなされていなかったということです。
 認知症になると、正円を書こうとするとうまくつながらなくなることがあります。円の中心を「推量」するという脳の高次な働きが鈍っているためです。また幼児に正円を書くように言うと、つながることはつながるのですが大きくゆがむことがあります。これは三六〇度の方向感覚がまだ未発達だからです。
 私の恩師は学生時代、授業がつまらなくなると鏡文字を書いていたそうです。実際にそれを目の前で書いてくれたこともありました。早稲田大学の副総長まで勤めた明晰な頭脳の持ち主です。普通に書けば書けるものを、敢えて鏡像にするためには、その形を正確に把握し、さらにそれを意図的に逆にするという難しい作業を脳の中でしなければなりません。手で書いている内にいいアイデアが生まれるという人がいますが、ダ・ヴィンチは、書くということに人並みはずれた負荷をかけながら脳を働かせ、思考を深めていったのでしょう。
 Artificial(わざとらしい、人為的な)はArt(芸術)の語源であり、ダ・ヴィンチの手稿はまさにArtに他なりません。ダ・ヴィンチの書は「意図的」に逆にくずしているのであり、くずれているのではありません。垂直に書くべき線を垂直に、まん中に書くべき文字をまん中に書くのも、これもArtに違いないはずです。