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先生と生徒が共に成長する場としての教室(2016年12月号) [2016]

「教」という漢字は、もとは子供にむちを打って習わせる、ということを意味しています。厳しい学問に自主的に向き合えるようになるまで、いわば強制的に学ばせざるを得ない、ということでしょう。高圧的な指導ばかりでは効果的とはいえません。学ぶことが大変であっても、それが大切なことであり、楽しみにもつながると身をもって伝えるのも指導者の役割です。
 先生業をしていると、指導実績として、今迄何人の生徒を教えてきたかが指標となることがあります。少人数を長期に亘り指導してきた場合もあれば、大人数を短期間だけ指導してきた場合もあるでしょう。どちらにせよ、教室において直にどれだけ生徒と対峙してきたかが、先生の評価の一つの尺度にもなっているわけです。
 私も教育テレビなどで学ぶことはありますが、そこに講師として出演している先生の弟子として「師事」していると言えません。出演している先生も、教室での生徒と対面の場を多く経験してきた実績があって、その上で不特定多数の人に向かって講義をしているわけで、そこに至る迄には多くの試行錯誤があったはずです。
 指導者は、学ぼうとしている人のために、よかれと思ってか、最新の電子機器を用いて最高の授業を提供しようとします。ただ、その分先生の出番は少なくなります。これは残念なことです。教室は先生が生徒にむちを打つような厳しい学問の場ではありますが、同時に先生が指導経験を積み重ね成長していける貴重な場でもあるはずです。教壇に立てば、教えることによって生徒がどう変わっていくかが分かります。先生は生徒のようすを直に感じながら自らの指導の技量を向上させていきます。先生も生徒に成長させてもらっているのです。もちろん生徒は先生に「師事」したことになります。
 教わる側が教える側となって強く想い出すことは、教わった内容というよりも、先生が実際にして見せてくれたことや、自分の経験に基づいて話してくれたこと、またその人柄だったように感じます。どんな学問であれ、先生と生徒が共に成長してゆける場としての教室こそが、真の学び場であると私は考えています。

東京書藝展閉幕す(2016年11月号) [2016]

東京池袋の東京芸術劇場で行われた四年に一度の書展、東京書藝展が閉幕しました。一年の準備期間、作品制作の構想、稽古等も含めれば、それ以上の期間が本書展に向けて費やされたはずです。出品者の方々、指導を担当した先生方、運営にあたった事務局職員の方々、それぞれの熱意ある取り組みが結実し、素晴らしい展覧会となりましたこと喜びにたえません。特に、実行委員長の内田篤秋先生を始め審査役員の先生方には、本展成功に多大なご尽力を賜りました。また実際の運営に関しましては、多勢の会員の方々、関係各位にご尽力いただきましたこと、この場を拝借し改めて厚く御礼申し上げます。
 会期中は、私も出品作品をじっくり鑑賞させていただきました。会期が終りの頃には、誰の作品がどこに展示されているのかが頭に入っているようにまでなり、私にとっても充実した書展となりました。会場では、それこそ数十年ぶりの再会を得るなど、展覧会ならではの慶ばしい場面も多く、こうした機会を提供する事も、本展の一つの役割かと思いました。
 書をすることは、文字を上手に書いたり、表現力豊かに書くことだけを最終目標としているのではありません。よく考えて文字を書きしたためることは脳の様々な領域の同時並行的な活動を促し、結果、言語能力を高め、思考、判断、コミュニケーション能力といった人間らしい高等感情を培っていくことにこそあります。つきつめれば、それが再び書となって現れてくるのですから、巧拙のみを基準としない奥深い書の世界がそこにあるわけです。
 東京書藝展が、なごやかな雰囲気の中、来場者どうしの交流もあり、実り豊かな展覧会となりましたことご報告申し上げます。これからもぜひ書のある暮らしを楽しんで下さい。

練習の量が質の変化になるとき(2016年10月号) [2016]

収穫の秋到来です。年間賞を受賞された方々には心よりお祝い申し上げますとともに、そのご努力に深甚なる敬意を表します。
 この「実り」での学習は、月例の課題が中心ですが、そのほかに師範準師範試験や昇段試験、展覧会や誌上展などにチャレンジをする機会があります。私の指導経験からなのですが、これらに取り組むと、今までの練習から一枚皮がむけたような力がつくことに気づきます。例えば書道などで、いつもは清書作品が楷書か行書しか選ばれなかったのが、草書が選ばれたりします。何も草書を集中的に練習してきたわけではないのにです。また、いつも指摘してきた注意点が落ちついてきたりもします。
 試験や展覧会などに向けた練習は、ある意味、自分の限界に挑むような試みです。自らの能力の臨界点にまで到達した時、練習の量が、根本的な能力の変化に転じるのかもしれません。真摯にチャレンジした痕跡は、確実に自らに残り、財産となっているはずです。新しいことにチャレンジすることはしごく骨の折れることですが、それによって新境地が開け、人生がより豊かさを増すこともあります。今月号では、そんな道のりを確実に歩み、成果を上げている方々のすばらしい顔ぶれが揃っています。書の道は険しいものですが、共に学ぶ頼もしい仲間がいれば、また力が湧いてくるものです。
 書を楽しむことは、書と長くつきあうコツであり、書を通して心を養う術に違いありません。会員の皆様が、益々書と親しみ、今後も日々新面目のあらんことを祈念しております。

大字作品に挑戦(2016年9月号) [2016]

 来たる九月二十八日より、四年に一度の「東京書藝展」が開催されます。この九月号が皆様のお手元に届く頃には、既に出品は締め切られているはずです。出品予定者の方々は、ほっと一息ついているところでしょう。この原稿を書いているのは七月下旬です。実のところ今現在、私はまだ出品作品の題材を決めていません。ただし、書く筆と紙と墨は半年以上前から既に準備していました。
 いつもなら、もっと早めにとりかかるのですが、これにはいくつか事情があります。まず展覧会に向けて、何か新しい作品に挑戦してみたかったということ。中国に出かけた折など、片手では扱いきれない程の大型の筆を購入して持ち帰ることがあります。ただ、こうした大きな筆は普段ほとんど出番がなく宝の持ち腐れになっており、ぜひこうした筆を使って作品を書いてみようと考えました。
 次に、このような大型の筆の強い筆圧に耐えられる強い紙が必要であること。今回は、夾箋と呼ばれる厚手のしっかりした紙の大画仙サイズ(縦180㎝横97㎝)のものを縦に二枚つなぎます。この紙を継ぐのも、その道の専門家がいて、継目をピタリと2ミリ程とり、美しく仕上げてくれます。墨も大量に必要となります。1.8リットル位あれば、書き込むことも考え合わせてどうにか足りるというところです。墨汁を使えば問題ありませんが、固形墨を磨るとなると、これは大変です。五年前、個展を機に最大級の墨磨り機を手に入れたので、これが大活躍してくれる予定です。墨汁と固形墨の差をよく尋ねられますが、書き了えて墨が渇くと液体はペタンと柔らかな感じになり、固形墨はカチンコチンに固まります。固形墨の作品に「墨だまり」という独特の照りの部分があるのはこのためです。今回は、この固形墨を使ってみるつもりです。文字数は五文字位と考えているので、一文字の一辺は1m近くなります。
 また、書くスペースと、まとまった時間の確保も重要課題です。日常の細々とした仕事や書斎の整理をしてから墨が飛び散ってもよい養生をします。集中力と気力、体力を充実させて、一気呵成に書き上げなくてはなりません。こうしたことを考え併せると、出品締切直前の夏休みの時期が今回は丁度よかったわけです。
 私にとっては新しい挑戦です。展覧会では出品者の皆様同様、一挑戦者としての参加となるかと思います。皆様と共に東京書藝展を創り上げられますことを今から楽しみにしています。

碑林公園と和紙の里を訪ねて(2016年8月号) [2016]

 去る六月三十日、書の学習の一環として山梨の大門碑林公園、なかとみ和紙の里、雨畑硯の産地を訪ねました。
 大門碑林公園には、「九成宮醴泉銘」の復元碑など、大型の石碑が十四基展示されています。日頃、我々がその拓本で臨書する古典が、もとはどのような形状であったのかが分かります。書学者にとってはぜひ見ておくべき史料です。中国陝西省博物館の中にある西安碑林などに行けば原碑を見ることは出来ますが、風化や損傷により、立碑当時のようすを窺うことは困難です。大門碑林公園の復元碑は、古い拓本と照らし合わせながら、建立当時の石碑のようすを伝えてくれます。本などからでは伝わってこない厚みや重みといった質感を体験することが出来、書の学習に弾みがつくことまちがいなしです。
 次に訪れたのは紙漉き工場の見学です。身延町の西嶋は、町を挙げて和紙の生産を行っています。我々が日頃使用する半紙ですが、その製造工程を実際に見るのは、私も初めてでした。例えば、紙の表と裏がどう決まるかなど、今迄耳学問であったことを、間近で窺うことが叶い、積年の疑問を晴らすことが出来ました。手漉きの紙を八十度の鉄板で乾燥させる場面では、棕櫚の刷毛で紙を伸ばす工程があります。手漉きの半紙の裏に波のような筋があるのはこのためです。この刷毛さばきが見事で、またその棕櫚の刷毛をさわらせてもらったりして、まさに紙造りを体感させていただきました。
 帰りがけには、日本を代表する硯の産地である雨畑を訪ねました。硯はつるつるしすぎていても、ざらざらしすぎてもいけないもので、その点雨畑硯の墨のおり具合が絶妙です。今回の旅の土産に一面手に入れて参りました。
 書道の醍醐味はこうした書道史の現場に触れてみたり、文房具を使いこなすことにもあります。この極めてアナログな感覚を呼び覚ますことが、現代を生きる我々にとって必要なことなのではないかと改めて考えさせられた一日でした。

半紙は折り目をつけて書いてもよいか(2016年7月号) [2016]

 表題の言葉は、よくある質問です。折り目をつければ、配字、字粒が捉え易くなりますが、いつまでも折り目に頼っていては上達しません。ペン習字部や実用毛筆部では、まずマス目に一文字一文字を書く練習から始まり、次に罫線入り、最後には無地と徐々に補助線がなくなっていきます。これと同じように、半紙も一文字を枠にはめることから、全体を俯瞰して部分を組立てていけるよう練習を進めていかなくてはなりません。
 文字にはそれぞれ特徴があります。たて長の文字、平たい文字、小さな文字、大きな文字など様々です。「一」や「四」などの文字は平たくなるので、上下を狭めにとりますし、「永」や「年」の文字はたて長に書くので広めにとります。これらをすべて同じ大きさの枠にはめ込んだら、平たい文字の上下はあき過ぎとなり、たて長の文字の上下は窮屈になってしまいます。半紙に体裁よく書くためには、こうした配字の微調整が必要になってくるのです。
 折り目をつけず、作品の完成予想図を頭に描いてから、まるで彫刻を掘り出すがごとく一点一画、一文字一文字を書いていくことは、初めは難しいものです。これも数をこなし、訓練を重ねることによって、次第に出来るようになるのが書の醍醐味です。目に見えて自らの向上が感じられる達成感を味わえる点は、体育のそれと似ています。半紙に収めることがそう難しくなくなると、今度はより広い空間を支配することも射程圏内に入ってきます。例えばこの「実り」前月号一ページの条幅作品は仮罫を引いたり、折ってから書いたものではありません。
 子供の習字をしているようすを見ていると、自分の名前を紙の隅に小さく書いたり、また思いきりはみ出して書いているのを見かけます。私の指導経験からなのですが、これが紙にきちんと収まるようになると、その子供の他の感覚、例えば集中力、判断力なども成長してきます。獲得した能力は、もちろん手入れをしないといけませんし、またより高度なものに挑戦していかなければ錆ついてしまう類のものです。ぜひ、少しずつ難度の高いものに挑戦していってみて下さい。

子供の声と書(2016年6月号) [2016]

 「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ」……これは十二世紀後半、後白河法皇が撰した梁塵秘抄の中に見える和歌です。この和歌の解釈には諸説微妙な違いはあるにせよ、子供の声を愛して止まぬ作者の心情を表しているという点に異論はありません。
 歩行者天国の音の大きさの種別を測ったところ、一番大きな音量を発しているのは子供の声だったという結果があります。最近、子供の声を騒音として捉える向きがあり、心配しています。例えば大勢の人が談笑するパーティー会場や、様々な音が入り乱れる雑踏の中でも、人は自分の話したい相手の声を聞き分けることが出来ます。音の強弱や遠近にかかわらず、特定の音を選択的に聞き取れる現象をカクテルパーティー効果といいます。このような聞き取りは、両耳ならもちろん、片耳で聴いた場合でも容易に出来ますが、同じ状況を録音して後で聞き直した場合、ノイズが多過ぎて、聞き取りが難しくなってしまいます。こうした人間の脳の能力に現在注目が集まっています。外界から知覚される情報を分析し、自らを社会に位置づけていく「社会脳」と呼ばれる能力です。社会脳は、特定の部位が支えているのではなく、いくつかの部位が連携して機能するもので、デフォルトモード・ネットワーク(DMN)と呼ばれています。
 このDMNは前頭葉から頭頂葉、側頭葉にまたがり、何もせずぼんやりとしていると活発化するというユニークな特徴を持っています。座禅などは一見何もしていないようでも心の鍛錬に有効だということです。逆にスマホをいじったり、インターネットを見ていたりする時は、このDMNが機能しなくなるという研究があります。書は脳の様々な領域の連携を促す活動です。心静かに筆を執ることは、便利な機械にいやがおうでも接触せざるをえない現代人の、欠くべからざる栄養ともいえるでしょう。
 以前は、電車の中に遠足に出掛ける小学生が多勢乗ってくるとワイワイガヤガヤと車両が急にパーッと明るくなったものです。行楽の頃かと季節を愛でつつ、元気をもらったものです。この十年でしょうか、車内では子供達が押し黙ることを強いられる昨今、問題は別のところにあるのではないかと案ずるこのごろです。

多様な漢字の形を認めることの大切さ(その二)(2016年5月号) [2016]

 手で文字を書くことは、声にイントネーションをつけるが如く身体性の高い行為です。人の脳は、単純化された繰り返しの運動を嫌うように出来ています。これは、蝶のような小さな動物でも極めて不規則な羽ばたき方をするのと同じです。文字を書くにしても、抜く線ばかり続いたら止めてみたり、止めるところが多かったらはねてみたりする方が「自然」なのです。活字は「打つ」とか「並べる」ものであり、このように自然である必要はありません。活字の形に多様性が排除されているのはこのためです。
「話す」が如く「手で書く」ことに変化を加えることは、文字性、空間の構築性、手の細かい動き等が加わってくるため「話す」より格段に難しい行為となります。しかしながら「書」の目指すところはこの「自然」さに他なりません。誰にも×にされない隙のない標準的な文字を書いていても視点の違いによって×とされることがあるものです。また、教科書の字体と寸分違わぬ形であったとしても、それが履歴書など実際の場面で、名前が枠の隅に小さく書かれてあったら、学校の試験では○になり、得点となるでしょうが、人材としての評価は推して知るべしです。
 漢字の書き取りでは、書道の指導者の方が○を多くつける傾向にあると言われています。多くの文字を手書きし、文字に色々な表情をつける大切さを知っているからです。正しい形で漢字を書ければよし、というものではなく、むしろ時々場合に応じて、書きぶりのバラエティーを増やしていくべきものです。
 漢字の書き取りは、受験の場面では必須の項目で、学歴を高めるためには「標準の形」だけ、覚える方が得かも知れません。しかし、手で文字を書く際の人間の脳の働きが明らかになりつつある今日、「読み書き」によって全人格的な人材の育成を図らんとするのなら、多様な漢字の形を認める大切さを、まずは指導する側が理解しなくてはならないはずです。

多様な漢字の形を認めることの大切さ(その一)(2016年4月号) [2016]

 文化庁の文化審議会漢字小委員会は、二月九日、漢字の手書き文字について、「はねる」「とめる」など、細かい違いで正誤はなく、多様な漢字の形が認められていることを説明する指針案をまとめました。このような指針案が示される背景には、学校のテストで印刷文字以外の字形を間違いとされたなどという声が増えたことがあります。
 漢字の書き取りで、小学校の低学年同士が互いに○×をつけ合うと、×が増えることが分かっています。漢字をよく知っている人なら「幸」の字の下二本の横画のどちらが長かろうと違う字にならないことを知っていますし、また「土」と「士」の字は、横画の長短の違いによって異なる文字になってしまうことも知っています。文字を習い始めたばかりの子供達は、まだ長短やとめる、はねるなどの違いによって別の文字になってしまうかどうか分からないため、教科書の文字と見比べて、少しでも違うところがあると×にしてしまうことから、不正解が増えてしまうのです。
「千」「干」「于」などの文字は、点画の方向、とめるかはねるかの違いで異なった文字になります。文字は、まず記号として識別出来なくてはなりません。単純な例で説明しましょう。信号機の青、黄、赤色で、正しいとされる色と、少しでも色あいが違ったら使用不能、とはしません。信号の色よりも格段に複雑になりますが、他の文字と「識別」出来ることが、記号の条件であり、漢字の○×をつける採点者は、数千に及ぶ文字の体系を知った上で、その文字が識別出来るかを判断する審査員であらねばならないのです。
 文字は歴史的に「読み文字」と「書き文字」の二系統が存在します。文字を「打つ」ばかりで、手書きする意義を軽視してきたツケが、教育の現場で露呈し始めているとも言えます。この、多様な漢字を認めることの大切さについては、さらに大きな問題を孕んでいます。これについては次号でお話したいと思います。

季節を愛でる書の学び(2016年3月号) [2016]

 寒い冬が過ぎ、春の気配が感じられるようになりました。書を学んでいると、季節の移ろいに敏感になります。手紙一つしたためるにしても、まずは時候の挨拶を書きます。二十四節気は重宝する言葉です。一年を二十四の季節に分け、「拝啓 春分の候」など、使い勝手のよいものです。これをさらに細分化したのが、七十二候です。七十二候は、二十四節気の各一気を、それぞれ初候、次候、末候のおよそ五日ずつに分けます。二十四節気同様、それぞれに名称があり、啓蟄(新暦の三月六日ごろ)は、「蟄虫啓戸」「桃始笑」「菜虫化蝶」といった趣深い言葉があてられています。
 和歌や俳句を書く際には、季節感が大切です。花鳥風月を愛でる心は、書に必須の要件ともいえます。例えば、春分を過ぎた頃、しとしとと降る長雨のことを霖雨と呼びます。丁度、菜の花の開花期に当たるので菜種梅雨とも言います。同じ長雨でも、春霖が、日一日と草木を成長させる恵みの雨であるのに対し、秋霖は冷たく、しけ寒、秋湿りといった呼び方をします。風一つとってみても、その表現には、それこそ風情があります。梅雨明け以降の、白い絹雲が空に流れる盛夏の頃の風の呼称に「茅花流」がありますが、南風に茅花がいっせいになびくようすが想起されます。風は目に見えることはありませんが、季節の花のようすに風を美しく表現しています。月にも様々な表情があります。中秋の名月は有名ですが、「十六夜」も一興です。十五夜より、やや遅れて出るので、ためらいながら出る月の意で、「いざよう月」ともいいます。これからの季節は朧月が楽しめます。春は水蒸気が月を包んで、朦朧とするため、秋の冴えわたった月とは違い、柔らかなようすが季節の妙を感じさせてくれます。
 日本の四季にはそれぞれ美しさがあります。少し足を伸ばして名所・旧蹟を訪れれば、文学碑や門標が目にとまることでしょう。伝統的な日本の書を理解するためには、変体仮名や歴史的仮名遣い、草書体や異体字など、学ばなくてはならないことは沢山ありますが、四季の言葉をしたため、また鑑賞することは、豊かな美意識と触れ合うことでもあります。これからは桜の頃です。季節を愛でつつ、ぜひそれを書の学びにつなげていって下さい。

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