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人間形成のための手書き教育を目指して(2024年5月号) [2024]

「人間形成」という言葉は、ややもすると近代教育学の源流であるルソー、ペスタロッチ、フレーベルなどがそれぞれの教育観のもとに追求してきた「教育による理想的な人間像の形成」の文脈で捉えられるかも知れません。私が今回、博士論文の中で提起した「人間形成」という言葉は、高いレベルの精神的機能が集中する前頭葉の活動に関するものであり、前出の理想的人間像の追求とは異なる概念です。利便性追求全盛の時代の渦中にあって、手書きしたり、毛筆を使ったりすることは、この流れとは逆行するようですが、学習する脳の基礎体力を養う修錬であり、いわば脳の生活習慣指向型行動様式ともいえるでしょう。博士論文を書き進める中で、莫然としたこのような考えを歴史的な軸と科学的裏付け、そして私の個人の指導経験を一本の論としてまとめることが出来ましたこと嬉しく思います。
 博士論文の執筆にあたっては、広島大学大学院の指導教官、松本仁志教授から終始懇切丁寧なご指導を賜りました。実験に際しては埼玉大学までご足労戴き、関係者らと信頼関係を構築するなど、多大なご支援に与りました。また難波博孝教授、並びに山内規嗣教授には、ご専門の見地から貴重なご指摘を賜りました。東京女子医科大学脳神経内科の吉澤浩志准教授には、言語と脳科学の視座から、実験のデザインに始まり、解析、考察に至るまで医学論文の作法を以てご指導戴きました。言語聴覚士の毛束真知子先生には、書字と脳の最新の知見からご助言を戴きました。埼玉大学脳科学融合センターの中井淳一教授にはNIRS の使用法を中心として、実験遂行において大変お世話になりました。統計解析では東京学芸大学大学院修士課程の川原名見氏に過分なご支援を賜りました。データの測定、集計のお手伝いをして戴いた方々、被験者の皆様のご協力がなければ本研究は実現できなかった事でしょう。
 東京書芸協会の先生方、会員の皆様には、日々多くのご示唆、並びにご協力を戴いています。この場をお借りし改めて深くお礼申し上げます。今後は研究によって得られた知見である「人間形成」の理念の発信に努めますと共に、東京書芸協会を始め、手書き教育の発展に尽力していく所存です

洋の東西は問わない 「文字を美しく書く」 こと(2024年4月号) [2024]

 文字を美しく書くことに関しては令和四年四月号の本欄でイギリスでも日本の「習字」と同じような教育がなされていることを紹介しました。書字と脳について研究していると、欧米でも文字を上手に書くことについて、日本人以上に高い関心があるのではと感じられることが多々あります。
 例えばアメリカの医師ゴーディナーの報告です。彼は一八九九年に書字中枢の一つとされる脳のエックスナー中枢の失患による失書の症例を報告しています。彼はアイルランド人の婦人患者を診察し、この患者の書いた文字を以下のように表現しています。「達筆であった彼女が文字を書くことが出来なくなってしまったのだ。ペンの持ち方には問題がなく、書くことが出来るようにペンを動かすが、その書字は連続した一連の曲線に過ぎなかった」。このように脳と書字の研究においては洋の東西を問わず、文字の書き方の功拙や筆記具の持ち方についての記述がよくみられます。ちなみにこのエックスナー中枢とは一八八一年にドイツの神経学者エックスナーが世界で初めて報告したもので、彼は今までの文献例を詳細に検討し、失書が認められた症例では、どの症例にも左中前頭回後部(頭の左前上方あたり)に損傷がみられたことから、この部位を書字中枢と想定したものです。
 一八七三年に欧文タイプライタ丨が実用化したアメリカでは、手書き教育について日本よりも先に考えてきた歴史があります。一九三〇年代頃にはアメリカで手書き教育が軽視される傾向にありましたが、現在では日本の小学校一、二年生にあたる学年でブロック体(活字の形/楷書体)を学び、三年生から筆記体(手書きの形/行書体)を学び始めることが一般的となっています。
 欧米の「習字」の授業を見聞きする中で、生徒の筆記具の持ち方や姿勢は良く、手書き教育に対する関心は日本を上回っているように感じられます。日本でも広く世界の手書き教育を俯瞰した上で、日本の漢字かな交り文を美しく手書きすることについて検討することが必要であると考えています。

教育史における読み書きの位置づけ(2024年3月号) [2024]

 人が言葉を話し始めたのは今から三十万年前頃とされています。これは、その頃の人の舌下神経の太さ(断面積)を頭骨の底部から測定したところ、四百万年前の類人猿や猿人よりも二倍太くなっていることから舌の動きが活発になったこと、すなわち「言葉」を使い始めたのではないかということによります。
 音声言語である「言葉」は、教育を受けずとも社会生活を営む中で自然に習得することが出来ますが、文字の読み書きはそうはいきません。文字という莫大なコードの習得には大きな負担が伴います。文字の読み書きを行う能力を身につけさせるためにはそれを強いる教育者の存在が欠かせません。中世の頃まで文字は王や貴族、僧侶あるいは書記などが独占するものであり、読み書き教育は一部の層で行われるものに過ぎませんでした。
 近世になり、工業的な発展と共に、読み書き教育は広く社会で行われるようになります。スイスのペスタロッチ(一七四六~一八二七)は、教育思想家、実践家として著名です。ペスタロッチは産業革命前後に始まった近代教育がまだ黎明期の頃、読み書きを学ぶことと人間性の陶冶の関係について検討をしています。ペスタロッチの著書「ゲルトルートは如何にして其の子を教ふるか」の第十二信では「我々には綴り方学校と書き方学校と問答学校とがあるだけである。そうしてこれに対して人間学校が必要である。」と述べています。教育が一般化する中で、ペスタロッチは読み書きの習得といった実学が人間性の陶冶と一体どのような関係にあるのか、既に模索を始めていたことが分かります。
 文字がボタンを押せば出来上がるだけでなく、作文や会話までもが人工知能によって行われ得る今日において、人間性の陶冶という教育の究極の目的に対する方法は、未だ明らかになっているとはいえません。しかし読み書きをする人間の脳機能が科学的な視点から解明されつつある昨今、読み書き教育と人間形成の関係が明らかになるのも歴史の流れになるかも知れません。

日本の古典文献からみえる 手書きと「人間形成」(2024年2月号) [2024]

 日本における心と書に関する文献について古くは平安時代、空海(七七四~八三五)の『性霊集(しょうりょうしゅう)』があります。その中には以下のような言葉が見えます。「古人の筆論に、書は散なりと云うは、但に結裹(けっか)かを以て能しと為すのみに非ず。必ず須らく心を境物(けいぶつ)に遊ばしめ、懐抱(かいほう)を散逸し、法を四時に取り、形を万類に象(かたど)るべし。」これは、ただ単に文字の形を書けばよいとしているだけではなく、文字を書くということは心を自然界にゆったりと遊ばせ、発想の展開を自由にし、手本となる法則を移り行く四季に求めて、文字の形態を森羅万象に具象化することがどうしても必要である、ということです。
 鎌倉時代、吉田兼好(生没年不詳)の『徒然草』には「手のわろき人の、はばからず文書き散らすはよし。見苦しとて、人に書かするはうるさし。」とあります。字の下手な人が、遠慮することなく手紙をどんどん書くのは良いことである。自分の字を見苦しいといって、他人に書かせるのは、いやな感じがするということです。この文には心を伝える書簡において文字を自分の手で書くことの意味についての兼好の考え方が示されています。
 南北朝時代、尊円法親王(一二九八~一三五六)の『入木抄』には「字形は、人の容貌、筆勢はひとの心操、行跡にて候。」という言葉が見えます。字の形は人間でいえば顔かたちであり、筆勢は人間でいえば心ばえやその立居振舞のようなものであり、筆勢に心のありようが表われるとして述べています。手書きをすることは大脳を広く大きく動かす行為です。筆跡に人の心が現われるが由にそれと向き合うことの大切さを先賢は述べています。
 最近、手書き教育が見直されています。スウェーデンでは保育園へタブレットを導入するなど国を挙げて教育のデジタル化を推進してきましたが、それが基礎学力の低下を招いているのではないかという指摘を受け現在、紙の本と手書きへと回帰してきています。手書き教育における「技能習得」から人の心を育む「人間形成」への移行は、世界的に大きな潮流となりつつあると感じています。

心閑にして楽余り有り(こころかんにしてらくあまりあり)(2024年1月号) [2024]

 昨年は四月に六年ぶりとなった東京書藝展が池袋の東京芸術劇場において、また十一月には快晴の文化の日に明治記念館において授賞式が滞りなく開催出来ましたこと、会員の皆様に厚く御礼を申し上げます。日本の文字を美しく書くことの大切さを皆様が理解され、豊かな日本の社会の魁(さきがけ)とならんことを祈念しております。
 コロナ禍を経て世間では様々なイベントが再び行なわれるようになりました。書の世界でも、展覧会や表彰式は大切な行事に位置づけられます。ただし、書の行事には特有の性格があります。そこには他者との勝負を競うようなものでもなく、熱狂や興奮といった感情の高まりとは縁遠い自省の世界が広がります。
 人間の脳にはデフォルトモードネットワークという機能が存在していることが分かってきています。これは安静にしている状態で活動を始める脳の機能で、対人関係などコミュニケーション能力といった人間の高次な機能の活動を促します。じっと何もしないで座っていると、一見時間を無駄にしているようですが、こうした効果が最新の脳科学では分かり始めています。
 「心閑にして楽余り有り」という言葉は南宋の葉夢得の言葉です。心がのどかで雑念がないと、尽きない楽しみが生ずる、という意味です。心の安寧が大きな福徳に通じるという先賢の言葉は多くあります。「心和し気平らかなる者は、百福自(おのず)から集まる」という言葉は明の洪応明「菜根譚」によります。心が和やかで気持ちの平静な人のもとにはあらゆる幸福がおのずと集まるという意味です。
 紙の前に端座し、心静かに筆を執ることは先の見通すことの難しい複雑な現代において、物事を理解し、判断し、解決する有効な手段であると私は考えています。ぜひ日本の文字を美しく書く生活習慣を大切にして下さい。この一年が皆様にとりまして実り豊かでありますことを祈念しております。