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鏡文字について(2023年12月号) [2023]

 鏡文字とは、鏡に映した時のように左右が逆の文字のことで、鏡映文字、裏文字、左文字などとも呼ばれます。鏡文字の発生は以下の三種類に分けることが出来ます。①成人の左半球損傷患者②文字を習得中の小児③左利きの正常成人。鏡文字は脳の左半球の損傷によって発生することから、左右といった感覚の中枢は脳の左半球で行なわれていると考えられています。ただし、左半球のどの領域が左右の感覚を司っているかは明らかになっていません。
 子供が鏡文字を書くからといって心配する必要はまったくありません。文字を書くという行為は脳の中で使われない領域がないといわれる程、脳の並列的な活動を指向するため、左右の感覚も含めて書字活動がまだ行われていないだけで、文字習得の途上にある子供にこうした鏡文字が発生することは学習の過程でしごく当然なことです。例えば、成人でも配字や点画の書きぶりに注意して書くと、誤字を書いていても気がつかなかったり、字形、字粒、線の表情に注意して書くと筆順がおかしくなったりするのと同じです。
 左利きの正常成人に鏡文字が現れ易いことについてはいくつかの説があります。まず、左半球に蓄えられている正字の記憶が右半球に伝えられる際に反転され、鏡文字となる説。次に左手は本来、右手と対称的な運動を行い易いので右手の正字の対称的な運動である鏡文字を書き易いという説。この二説が正しいのであれば、すべての文字は鏡文字となるはずですが、子供の鏡文字を見ても、それは常に鏡文字になっているわけではありません。自説を展開するとしたら、右利きの場合、交叉支配の原則により、左半球の活動が促されます。右利きの人の98%は左半球に言語を司る領域があるとされ、左半球の活動が活発化すると共に、左半球の左右感覚の活動が促されます。左利きの人の70%が左半球に言語を司る領域があるとされるため、左半球の左右感覚を司る領域の活動が促されにくいという点にその発生の理由があるという説です。人間が文字を使い始めた数千年前には左右の別を以て文字を書いていなかったことも、この説を支持すると考えられています。
 文字を手書きすることと脳の研究は現在急速に進んでいます。文字を美しく手書きする生活習慣をぜひ大切にして下さい。

思考を伴う手指の細かい運動とは(2023年11月号) [2023]

 人の手指の使用と言葉の発達の関係についての研究は以下の二点が前提となっています。――― 言語野(げんごや)の発達は人類の直立と関係がある。言語野の発達は人類の手仕事の発達と並行している。―――言語野とは脳の中の言葉を発したり、文字や文法を理解、産出したりする領域を指します。言葉の発達と手指の運動が一体どんな関係にあるのかは、手指の運動と言語を司る領域の位置関係にあります。心臓から送り出された血液は脳へと供給されます。脳の運動を司る領域の中で手指を司る領域は、体全体の半分ほどを占めています。手指の動きは脳の活動を促すのです。言語野と呼ばれる領域はこの手指を司る領域のちょうど下方にあたり、手指を使うことは、言語野の血流の上昇を促すことになるわけです。およそ七百万年前に直立したと考えられている人類は手指の自由を得、思考や言語を発達させてきたというのがこの分野の研究の前提ということです。
 それならパソコンでも手指を大きく使うから同じではないかというと、そうではありません。日本語をタイピングする場合、ほとんどの人はローマ字入力をすることと思います。一方手書きの場合、かな文字四十六文字に加え、常用漢字二一三六文字を日常書くことになります。タイピングが手指の動きとしては、字形、字粒、配字、書体に関係なく常に二十六通りであるのに対し、手書きは二千通り以上か、その数乗倍の手指の動きのバラエティーをコントロールすることになるわけです。手指の自動化された熟知運動は、思考を伴う手指の細かい運動の領域である前頭葉ではなく、脳の後方にある小脳が司ることになります。「書く」という言葉で一括りされる両者の行為ですが脳の活動としては大きな違いがあるのです。
 先日、スマホの基本原理を開発した科学者のお話を聞く機会がありました。米国には仕事柄よく行かれるということでした。米国のIT企業の会議室では四方にホワイトボードが設置されており、手書きをしながら活発な議論を交わしていると話されていました。また、手書きは大脳全体を大きく使う行為であり大切にすべきだとも指摘していました。
 欧文をアルファベットでタイピングする場合、日本の漢字の構築に相当するスぺリングの知識が必要となります。日本語をタイピングする場合、文字の音韻に対応するアルファベットのキーを押すこととなります。日本の文字は、手書きすると世界で最も難度が高い部類となり、一方、タイピングするのは比較的簡単です。脳科学の世界では今、手書きする脳の神経基盤をいち早く解明しようという競争のような動きさえ見られます。このような研究が社会へと還元され、豊かな日本社会の礎となることを願っています。

書の道は歩みて止まず(2023年10月号) [2023]

 史上最高の猛暑でお疲れの方も多いのではないでしょうか。それでもコロナ感染症に対する警戒が薄れたこともあり、行楽地は多くの人で賑わったようです。今まで行動を制限されてきただけに出掛ける楽しさもひとしおでしょう。季節はめぐり、文化に親しむ秋が到来しました。心を落ち着かせて筆を執り、書をしたためるには絶好の時節です。世間ではデジタル化推進が叫ばれていますが、私はデジタル化イコールタイピング、アナログイコール手書きとは考えていません。手書きについての研究は、人工知能、行動科学、応用脳科学といった側面から熱い視線が注がれており、科学の最先端の話題です。手書きをすることはデジタルを使いこなす格好の手段であると私は捉えています。
 新しい技術イコール善いもの、とする考え方はいかがなものでしょうか。目に見えず、また知覚もされない新しい便利な機械には、相応の科学の検証が必要です。例えばX線技術が開発された頃、これは便利ということで靴を作る際、足型をこれで撮るということが行われていました。しかし放射線の被爆という影響が知られるようになり、今は行われていません。デジタル技術は人間の暮らしを豊かにしてくれる面がある一方で、それに依存することによって人の身心にどのような影響があるか多くの人にはまだ知られていません。
 手書きの大切さは洋の東西を問わず広く認められ始めており、習字教室に通う子供は少子化といわれる中でも増え続けています。大人も手書きをする意義をよく考え、生活習慣として生涯にわたり書と歩みを続ければ、世界でも最高度の文字文化を擁する我が国は、再びその輝きを増すことと私は考えています。爽秋のみぎり、会員の皆様のますますの御健勝を心より祈念しております。

文字の形の標準と許容について (2023年9月号) [2023]

文字をタイピング、もしくはパネルにタッチして書くことの多くなったこの頃でも、教育の現場で「書き取り」は必須の課題です。私が学生の時に師事した国語教育界の大御所の教授も、授業を進める中で時間が残ったらまず漢字の書き取りをさせるとよい、とよくおっしゃられていたことを想い出します。書き取りはもちろん手書きですから、自分の頭で字形を想起し、それに添い手を動かさなければなりません。この一連の作業の中で、脳はどのような活動を行っているのかというと、まず側頭葉でひらがなやカタカナで示された文字を言葉として認識し、それに相当する漢字の字形を頭頂葉の中で描きます。目の前の紙面を視覚で把握するのは後頭葉、最後に前頭葉の機能である手の細かい動きを伴って頭の中で計画した文字を完成させます。一方、タイピングで文字を書くとなると、文字の音に対応した漢字を候補の中から選ぶこととなり頭の中で字形を構築したり、字形に添う細かい手の動きを必要とせず、頭頂葉や前頭葉の活動を促しません。手書きは基本的に全脳的な活動となるわけですが、これに美しく書く、という要素が加われば、体性感覚野、運動野などの更なる活動が必要となり、脳の成長が期待されます。書き取りをする脳の機能がまだ明らかになっていない頃、先賢はこの課題の教育的重要性を経験から知っていたのでしょう。
 書き取りを課す側の責任も重大です。標準字体というものを金科玉条のものとして、はねる、とめる、長短といった漢字の骨格には関係のないところを指摘してバツとすることがありますが、それはいけません。標準字体表の運用の注意書きにも許容の形を大切にするようにとあり、また「常用漢字表の字体・字形に関する指針」文化審議会国語分科会報告( 文化庁) といったすべての漢字の許容の形について丁寧に記した指導書もあります。ひらがなに至っては曲線が多く、標準字体さえ示されていないため、各教科書会社で違いがあり、例えばA社の「な」の下の結ぶ部分は三角形で、B社は丸くなっていたりします。
 文字というのは言葉であり、車のハンドルと同じで、その「遊び」の幅が狭過ぎても逆に緩過ぎてもうまく使いこなすことはできません。字形の許容の考え方が分かれば手書きする楽しさはまるで音楽を奏でるかのようにグンとアップするはずです。文字を手書きする教育的意義を教育者がしっかりと理解しなければならないでしょうし、また社会人の方々もこれについて考えていくことが大切かと思います。

宣教師が見た日本の教育(2023年8月号) [2023]

 習字を日課とした寺子屋は、江戸時代の教育を支えた庶民の学校として知られています。江戸時代が一六〇三年からとすれば、それ以前の教育はどう行われていたのでしょうか。
 フランシスコ・ザビエル(一五〇六~五二)は、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師です。一般に戦国時代と言われるのが一四八〇~一五七〇年頃ですから、ザビエルはちょうどその頃に日本を訪れたことになります。ザビエルが一五四九年に知人に宛てた書簡には、日本人が子供を虐待せず大切に育てていると述べています。また、子供達の賢明さも賞讃しています。安土桃山時代の一五八五年に来日したルイス・フロイス(一五三二~九七)は、日本人女性の多くが文字を書くこと、教育において体罰を行わないこと、子供達は寺で学習すること、日本の教育はまず書くことを学び、のちに読みを学ぶこと、日本の子どもは十歳でも五十歳と同じくらいの判断力と賢明さ、さらには思慮分別を備えていることなどをその著書『日に ほ本ん 覚おぼえがき書』に記しています。この時代に日本を訪れた宣教師たちが日本のどの地域でどのような階層の人々と交流したかは定かではないものの、習字を中心とした江戸の寺子屋教育は、当時既に芽吹いていたことが想像されます。鎖国令の出された一六三三年以降一八五四年迄こうした海外から見た日本のようすの記録は極端に少なくなります。
 教育の中心が「習字」であり、それが人間形成を目的とすることであることは、機械で文字が打ち出せるようになった現在でも変わりません。手書きは文字の形態の正確な想起、運動計画、運動実行、視覚と手の巧緻な運動の協調、適切な筆圧を保つといった脳の非常に複雑な機能を統合的に必要とする行為であり、結果、その中枢ある前頭葉の人間の高次な機能の発達を促します。一方、機械で日本の文字を打ち出す場合、手書きと同じ言語活動でありながら手指の運動は基本的に文字の音韻に対応したアルファベットのキーを押す単純な行為となります。生成AIの存在がクローズアップされる昨今、人間の身体性にも注目が集まっています。人間が手書きすることの意味について考えなくてはならない時代が到来しています。

中国古典文献にみえる 書写書道教育と人間形成(2023年7月号) [2023]

 人間らしい心、すなわち人間以外の他の動物が持ち得ない恥や思いやりといった高等な感情、こうした心と書に関する文言については中国の文献に古くから見られます。『揚子法言』問神には「書は心画なり」とあります。この著書は前漢時代のものです。また「心正しければ、則ち筆正し」とは柳公権の著した『旧唐書』に見られる言葉です。心のありようが書に反映されるということは、この頃から既に言われていたということです。
 北宋の蘇軾(一〇三六~一一〇一)の著書『東坡題跋』巻四「論書」には、「書には必ず神・気・骨・肉・血有り。五者一を闕か かば、成書を為さざるなり。」という言葉が見えます。書には必ず神・気・骨・肉・血の要素があり五つのうちどの一つが欠けても、立派な書にはならないと述べています。蘇軾のいう「神」は、漢代以来の重要な芸術用語で、精神を意味し、形の対語として用い
られます。「気」は気力あるいは生気の意味です。明の項穆(一五五○?~一六○○?)の著書『書法雅言』には「書に性情有るは、即ち筋力の属なり。」という言葉が見えます。書に生命力や趣を持つ者は筋力を持つのと同じであると述べています。ここでいう「性情」は人の性質や心情を、また「筋力の属」は肉体の力を持つ者、すなわち人間を指しています。清の王宗炎(一七四九~一八二五)の著書『論書法』には「書を作る道は、規き矩くは心に在りて、変化は手に在り。」という言葉が見えます。文字の姿態や形勢に、気ままな筆づかいが見られず、きちっとした規範がそなわっている、これは心の働きになると述べています。
 他にも書と心のありようについての関連に触れている中国古典文献は数多くあります。書が人の心を表わすものであり、書写書道教育が人間形成と関連性を持っていることに昔から多くの人が気づいていたことが分かります。最近ではこれに脳科学の知見が加わり、なぜ「書は人なり」であるのかが解明され始めています。現代社会において書の役割は今後益々重要になってくるでしょう

思考を深める(2023年6月号) [2023]

 人工知能の開発が進むにつれて、それが人の暮らしを豊かにしてくれるものかどうか疑問符がつき始めています。教育の場面では人の知能を育もうとしているのですから、それを他の人や機械にしてもらえば、その人の発達を妨げかねません。便利な機械は社会の欠かすことの出来ない重要なインフラとなっており、これなしに現代の生活は成り立たないでしょう。便利すぎる機械に依存することなく、上手に使いこなしていくためには、まずは使う側個々人の「教育」が必要になってくるはずです。 
 対話型AI(チャットGPT)は膨大なデータを集めて、そこから確率に基づいて答えを出すだけ機械であり、「考えて」いるわけではありません。また大量の情報の処理過程では間違いが起こる可性が指摘されています。こうした間違いが起こらないように、機械の情報処理の精度が極限にまで上れば上がる程、既に自分の頭で考えないことに慣れきった人は、機械の出した結果の明らかな間違い気付かなくなるかも知れません。現在、この人工知能とどう向き合っていくか世界全体がその対応をられています。
 身近な例では、学校でのレポート課題です。課題を入力すれば答えを作ってくれるのですから、それこそ自分で作ったはずのレポートの内容を知らなくても課題をこなすことが出来てしまいます。出典の明記された確かな文献を手がかりにして、それをどう自分なりに構成していくか考えるのがレポート作成の基本です。こうした手続きをスキップしてしまったら、頭を鍛えるという教育そのものが行われなくなってしまいます。
 このような懸念が現実のものとなってきている昨今、レポートを手書きで提出するよう求める先生もいるそうです。何だかんだといってコピペがはびこるのだから、せめて自分の手で書いて頭を使ってもらおう、という諦観です。手書きは脳の様々な領域を並列的に動かす行為です。このような時代だからこそ、教育としての書と向き合うことの意味について考えなくてはならないと思います。

東京書藝展のこれから(2023年5月号) [2023]

 六年ぶりに行われた本会主催の東京書藝展が去る四月九日(日)無事終了いたしました。実行委員長の塚原月華先生をはじめ役員の先生方、事務スタッフ、お手伝いいただいた方、またご観覧にお越しいただいた方々、皆様のおかげで素晴らしい展覧会になったこと厚く御礼申し上げます。
 書藝展の名のとおり、書をテーマに工夫を凝らした実に様々な作品が出品されていました。個性的な作品も全体の中で見事に調和しており、作品どうしが互いに引き立て合う、そんな展覧会になったかと思います。
 一つの書道団体の展覧会としては洗練された完成度の高い仕上がりになったと思います。ただ、それだけに今後これ以上のものを求めるとしたら、会期や会場、出品形態など多角的に見直していくことも必要かと感じました。
 お気づきになった方もいらっしゃるかと思いますが、ギャラリー2の入口の脇に「書字と脳の研究」のコーナーを設けました。学生部の展示スペースとは趣きを異にしていましたが、一般部にせよ、学生部にせよ、本会の書の理念は、こうした学際性の高い科学的な研究によって支えられており、本展はそれを具現化したとも言えるのです。会員の皆様が学習環境を確かなものとするためにも、色々な分野の方々と協力し、文字を手書きする意味を研究していくつもりです。
 展覧会期間中は、来場する方々を出迎えたく出来得る限り会場に居るようにしたつもりなのですが、すれ違いでご挨拶が叶わなかった方々には、この場を借りてお詫び申し上げます。それでも多くの方々と拝眉の機会に恵まれましたこと嬉しく思っておりす。本当に久しぶりにお目にかかる方もおり、こうした側面からも有意な展覧会であったと思います。
 書教育は今、技能習得から高次脳機能の獲得、言い換えれば人間形成へと大きく舵を切ろうとしています。激変する社会環境の中で書を能くすることは益々重要性を高めていくことでしょう。皆様のこれからのご健筆を心より祈念しております。

日本の文字文化の奥深さに触れよう(2023年4月号) [2023]

 授業の中で過去の文献を声に出して読む場面で、その文を学生が読めないことがあります。これは戦後およそ四百文字程度の漢字が簡略化され、もとの形が旧字体となったからで、この七十余年前に使われていた漢字を学習する機会がなかったことに起因するものです。
 先日行われた大学入試共通テストの日本史に、筆文字で「蘭學」と書かれた設問がありました。日本史を学んでいく際に、こうした旧字体もしくは書写体についての知識は必須であるわけです。他方、英語圏は一六〇〇年頃のシェイクスピア文学でも現代の英語の知識があれば読むことが出来ます。日本の文字文化の分断は歴史の学習上大きな障壁とさえなっているともいえます。
 戦後、日本の文字が簡略化された理由は、まずGHQの意向があります。米・イリノイ大学総長ジョージ・D・ストダード博士を団長とする教育使節団は「現在の日本の文字の如く、暇のかかる表現と通信の手段を弄するといった贅沢なことをなし得る近代国家が一つでもあろうか。われわれは日本文字の徹底的改良が必要だと考える。」と述べています。また国内でも印刷の精度が当時低かったため、旧字体は繁体で文字がつぶれ易いということから出版業界などからも簡略化を歓迎したといわれます。
 後に、文字の簡略化を進めた東京大学言語学教授の服部四郎は昭和三十五年、以下のように語っています。「こう字が易しくなれば、つまりそれだけ学習の時間が負担が軽くなって、ほかのほうの学科に振向けることが出来る。学習の時間を取れる。そう簡単に考えておりましたが、実は人間は字が易しくなるとなまけるものだということに気づいたわけであります。」四郎は、思考の足腰、すなわち脳の機能を鍛えるためには、相応の文字の負荷をかけることが必要であることに気がついたということです。
 旧字体、書写体など、書を学ぶ上ではこうした難しい文字を使いこなしていかなくてはなりません。これはとりも直さず日本を深く知ることであり、それこそ贅沢な学びです。この豊かな日本の資源により多くの人が気づけば、この国の将来も再び輝きをとり戻すことと私は考えています。

東京書藝展を楽しもう(2023年3月号) [2023]


 六年ぶりとなる本会主催の東京書藝展の開催が目前に迫ってきました。出品された会員の方々は作品の提出も終わり、ほっとされていることでしょう。お疲れ様でした。
 展覧会には出品のいかんにかかわらず、どなたでも入場することが出来ます。教室の仲間、ご家族、ご友人など多勢連れだってお出かけ下さい。
 学生部は規定の課題に取り組みました。書作品制作に懸命に取り組むことは、脳の成長に有益です。それぞれ素晴らしい作品です。心より拍手を送りたいと思います。また学生部の会員の皆さんは、大人の作品も鑑賞してみて下さい。難しい文字が沢山並んでいますが、興味を持った作品は、先生や保護者の方に、その読みや意味を聞いてみるのもよいでしょう。将来は自分が出品するようになるかも知れません。
 師範・準師範部の作品は大作、力作揃いです。書の完成度のみならず、紙や墨の吟味、印、表装、そして会場との調和を図り、総合芸術の域まで書を高めています。確かな教養と、地道な積み重ねを要する技芸を兼ね備えなければ成し得ない書芸術です。勘やセンスだけではどうにもならない奥深さが書の魅力です。
 一般部では、今回初めて出品したという方も少なくないようです。先生と相談しながら、一つ一つ積み上げるように真摯に創り上げた作品は、鑑賞者に訴えるものが大きいものです。今回、出品されなかった方は、次回は挑戦してみて下さい。月々の課題制作とは異なり、自らの稽古の証として図録や展覧会の記憶と共に作品は残るからです。
 会場となる東京芸術劇場は、池袋駅前にあり、交通至便で、また食事や買い物をするお店も充実しています。書に興味のない方も誘って、春の一日、芸術の話題に花を開かせるのもよいでしょう。コロナ禍を越え、久しぶりの展覧会となります。皆様ぜひ東京書藝展を楽しんでください。