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手を鍛えよう(2014年12月号) [2014]

 中国に出かけた折、よく筆墨店(書道用品店のこと)に立ち寄ります。日本ではあまり見かけない光景なのですが、そのお店で、親子で真剣になって筆を択んでいるのを、しばしば見かけます。漢字発祥の地だけに、文字への思い入れが強いのでしょうか。日本に比べると、文字性、文学性の高い正統な書に重きを置き、書家の地位もその分確かなような気がします。これはあくまで私見なのですが。
 書が上達してくると、筆にもこだわってみたくなるものです。紙面に触れた筆圧を、手を通して脳が感知し、分析して再び脳が筆をコントロールします。脳は、この情報を、毎秒数十メートルという猛スピードの神経回路を通して処理しています。これは、例えば卵を手で持つときに、どの位力を入れればよいか脳で考えるのと同じです。ただし、卵をつかむのとは異なり、筆を使う際は、方向感覚、位置関係、言語、リズム感など、同時に様々な脳の機能を動員しなくてはなりません。書をすることは、脳を広く活動させているのです。
 書き心地のよい筆が見つかったとします。その筆で、最高に書き易い紙、墨と共に書をしたためます。よい道具、材料と出会えることは、書を学ぶ上で爽快な瞬間です。ただし、ここに安住することはお薦めしません。なぜなら、手がその感覚に慣れてしまい、しまいには、考えなくなってしまうからです。書家が、ここ一番のときには、少し使いづらい筆を使うことがあります。なぜなら、その方が「考えて」書く負担が増えるからです。手にかかってくる感覚がいつもと違う、さあ、どう扱ったらいいものか、よし、これでどうだ……という具合に脳が動き始めるわけです。
 何も多くの筆を座右に備えておく必要はありません。いつも使っている紙の、少しざらざらした裏面に書いてみたり、墨汁の種類を変えてみるのも手を飽きさせない方法です。
 手は外部の脳と言われるように、手の動きは、脳の知覚と運動覚の、半分近い領域を使用しています。さらに手の細かい動きは、脳の最高中枢である前頭前野にあり、一見、些細な運動と捉えられがちな書をすることが、いかに人にとって大切なことかが分かります。便利な機械が溢れる昨今だけに、手を鍛えることを忘れないようにしたいものです。

「実り」課題の上手な取り組み方(2014年11月号) [2014]

 文字を上手に書けるようになりたい、というきっかけで習字を始める方は多いことでしょう。目に写る文字の形をよくせんがため、書いている言葉の読みや意味を知らないままで練習している方を見かけます。これは大変もったいないことだと私は思います。
 文字には三つの要件があります。「読み」と「意味」と「形」です。同じ線画を書くにせよ、それを「言葉」として書くか、「図形」または「絵」として書くかの違いで、左脳の言語野の活動を伴うか否かという違いがでてきます。習字をするのなら、「言葉」として「読み」と「意味」を確認してから書くことが大切です。
 この「実り」には、手本の下欄や脇に、その言葉の「読み」や「意味」が付記してあります。また、その言葉の作者のプロフィールや、背景なども書き添えられている場合もあり、「言葉としてイメージをふくらませて書く」ことの深化が図られています。これらの説明書きで、もの足りない方は、その言葉をさらに調べてみるのもよいでしょう。調べる時は、ぜひ紙の本を利用して下さい。インターネットを使えば、簡単に結果を表示してくれます。しかし、それは明日になれば最新の情報のものに変わっていたり、またその次の日には元に戻っていたりと「動く」可能性がある情報です。
 一方、紙の本には「奥付」というものがあり、「いつ」「どこで」「誰」が責任を持って上梓したかが明白で、一度手にしたら、それは外部から勝手に修正されたり、消去されたりしません。この紙の本の内容が正しかろうが、間違っていようが、そこに立ち帰って検証出来る研究の確実性や、発展性を保障してくれるところに、紙の本で調べる意義はあります。また、書棚の、この位置の、この装丁本の、この頁の、この位置に、探していた言葉が載っていたという記憶は、右脳頭頂葉の機能の加わった脳の活動となり、いっそう学習の効果を高めてくれます。これは、そろばんが電子計算機を使うよりも、人の「数」に対する能力を高めてくれるのと同じです。
 習字をするということは、科学的な文言にするとしたら「脳の前頭前野を中心とした様々な領域の活動を指向する視覚言語の学習」と言い表せます。手書きを見直すことは、また再び昔に戻るわけではありません。パソコンの出現によって逆に顕となった「手で文字を書く」ことの本質、新しい向き合い方を考える時代が到来していると捉えるべきです。「書」のある生活を享受するためにも、この「実り」を、これからもぜひ有効に活用して下さい。

心の時代に書が出来ること(2014年10月号) [2014]

 天候不順のおかげで、せっかくの夏休みが雨にたたられたという方も多かったかもしれません。それでも暑さは例年通り耐え難い程で、秋風の訪れに、少しほっとしているこのごろです。
 今夏、三日間にわたる指導者講習会には、学校において書写書道の指導にあたる教員の方々も少なからず参加されました。皆さん習字をどう指導すればよいのか大変迷っているようでしたが、共通する点に、習字の授業に真剣に取組むと、教室の雰囲気がスーと落ちついてくる、という感覚を持っていました。理論的にどうこうというよりも長年の指導経験の中で、実感しているのです。
 文字を手で書くということは、脳の前部、それも心臓から遠い部分を大きく賦活させる行為です。手の細かい作業をすると、ボケにくいといわれるのはそのためです。書の指導は、もっと脳の機能と構造、それから言語の特質について理解を深めながら行うべきだとの思いを改めて強くしました。
 また、文字を手で書くということは、筋肉トレーニングのように厳しいものです。パソコンやスマホといった現代の文明の力を使えば、このような苦労はせずとも「書く」ことが出来るのですが、手で「書く」のと文字を打って「書く」のとでは脳の動きに大きな差異があります。
 今月号は、年間表彰者の発表の月です。時代や世情に流されることなく自らを律し、脳と心の健康の維持に努められている姿勢に対し、心より敬意を表したく思います。人の心に起因する悲しい出来事の多い昨今です。会員の皆様が賢明さを以て、ぜひ書を通し、これからも脳と心の健康の大切さを、広めていただきたく、これをお祝いの言葉とかえさせていただきます。

 漢字書き取りの○×(2014年9月号) [2014]

 こう暑いと字を書くのも一苦労です。特に完成度の高い書きぶりを目指すなら相応の集中力を要します。配字、字形、字粒にしっかりと留意して書いたつもりが、フッと暑さのせいで気が緩み、思わぬところで線が太くなってしまいます。書をすることは本当に骨の折れる作業です。
 二〇〇七年、日本ビクターが主催する国際的な市民映像祭「東京ビデオフェスティバル」において長野県梓川高等学校放送部『漢字テストのふしぎ』が大賞作品として選ばれました。この作品は小中高二〇〇名の教師による漢字テストの採点のばらつきに着目し、その矛盾を明らかにしていくという作りになっています。同じ漢字テストの採点なのに、先生によっては満点にしたり、零点にしたりと確かに不思議です。
 これは、いわゆる漢字の字体の許容をどこまで認めるかという問題です。例えば「木」の文字の下の部分を、はねるか止めるかという類のものです。ただ、こうした筆脈上に出現する点画の書きぶりの幅まで誤りとすべきかは、文字を定める側の国でさえ、×としないで下さいとしています。つまり「木」の文字の下の部分は、はねても止めてもどちらでもよいということです。また国語科の教員養成に携わる大学の先生は、許容の形を×にし過ぎると、その弊害は教師自身にふりかかると指摘します。例えば「小、称」という文字を書く場合、許容の形を全く認めないとすれば「小」の左側の点は払う、「称」の旁の左側の点は止める。また「園、遠、猿」の文字なら「園」の「袁」の部分の最終画は払う、「遠」は止める、「猿」は最後から三番目に書く画をはねて、最後の画を払わなくてはなりません。ここまで細かく書き分ける必要はあるでしょうか。この大学の先生は、そんなことを○×の基準とするのなら、教師自身だって満点はとれないし、またそんなことを逐一指導するよりも他に教えることがあるだろう、と言いたいようです。
 漢字を習得するためには多大な労力と時間を要します。この学習は、生徒の脳をどう育んでいるのか、という視点が曖昧です。元文部省の江守賢治氏は、字形の骨子が出来ているのに、教科書に載っている字体を金科玉条のものとし×とするのなら、そんな採点は子供でも出来ると断じ、教師が生徒の成長を期した正当な評価者であるべきだと訴えています。
 ボタンを押せば、読み易い文字がポンと出てくる便利な機械のある今日です。集中しなくては書けない、逆に言えば脳全体を使い集中する力を養うことを目指す書き取りであることが、漢字書き取りの本来あるべき姿であるはずです。

ダ・ヴィンチの鏡文字(2014年8月号) [2014]

レオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二~一五一九)は、イタリアの画家であり、また彫刻家、建築家、音楽家、技師、科学者で、ルネサンス時代を代表する天才です。ダ・ヴィンチは、数多くの手稿を残しており、それらが鏡文字で書かれていたということはよく知られています。文字を習いたての子供が「あ」や「お」の文字を、手本があるのにもかかわらず、器用に?逆方向に書くのを見かけたことはありませんか。保護者の方々は、なんで同じように書けないのか、とやきもきするようですが、これは脳の中に左右を認識する領域があり、まだそれが未熟なために起こる現象で、成長するにつれて解決するので、どうかご安心下さい。
 人類が文字を使い始めた三千年程前、古代文字である甲骨文字は、左右の別がありませんでした。左右逆向きをしていても、つまり鏡文字でも、同じ文字として使われていたということです。古代の人だって右に行くか左に行くかをまちがえたら、それこそ生死を分ける大事になったことでしょうから、右と左が分からなかったわけではありません。左右認知という脳の領域を用いながら、手の細かい運動、造形、言語活動を同時に行うことが、まだなされていなかったということです。
 認知症になると、正円を書こうとするとうまくつながらなくなることがあります。円の中心を「推量」するという脳の高次な働きが鈍っているためです。また幼児に正円を書くように言うと、つながることはつながるのですが大きくゆがむことがあります。これは三六〇度の方向感覚がまだ未発達だからです。
 私の恩師は学生時代、授業がつまらなくなると鏡文字を書いていたそうです。実際にそれを目の前で書いてくれたこともありました。早稲田大学の副総長まで勤めた明晰な頭脳の持ち主です。普通に書けば書けるものを、敢えて鏡像にするためには、その形を正確に把握し、さらにそれを意図的に逆にするという難しい作業を脳の中でしなければなりません。手で書いている内にいいアイデアが生まれるという人がいますが、ダ・ヴィンチは、書くということに人並みはずれた負荷をかけながら脳を働かせ、思考を深めていったのでしょう。
 Artificial(わざとらしい、人為的な)はArt(芸術)の語源であり、ダ・ヴィンチの手稿はまさにArtに他なりません。ダ・ヴィンチの書は「意図的」に逆にくずしているのであり、くずれているのではありません。垂直に書くべき線を垂直に、まん中に書くべき文字をまん中に書くのも、これもArtに違いないはずです。

挑戦しつづけることの大切さ(2014年7月号) [2014]

 第五回実り誌上展特別号が刊行となりました。刊行に際し、関係各位には多大なる御協力を賜りました。厚く御礼を申し上げます。
 出品された会員の皆様の作品を鑑賞するに、今回は以前にも増して自分でよく考え、工夫をこらして作り上げた作品が多かったことに頼もしさを覚えました。新しいことに挑戦することは、それこそ骨の折れる作業に違いありません。いつもどおりにしておけば失敗もしなければ恥もかかなくて済むかもしれません。挑戦しつづけることは本当に大変なことです。
 良寛は「われきらい三つあり 歌よみの歌 料理人の料理 書家の書」と言っています。創造性というものが重要となる人の営みが発露する場面において、また同じものか、と辟易したことから発せられた言葉です。逆から考えれば、挑戦しつづけることこそが、こうした分野における必須の要件であるということです。
 とはいえ、新しければ何でもよいのかといえば、さにあらずです。積み重ねるがごとく、少しずつでも新しいことに挑戦していくことこそ、その蓄積が真の創造性、独創性へとつながっていくのだと私は考えています。
 挑戦する気概を持ちつづけることは、心の健康を保つ秘訣でもあります。この誌上展を通して皆様の旺盛な活力が感じられましたこと喜びに絶えません。今後も会員の皆様と書について考え、書を通して共に成長しつづけていければと思います。

和歌を書にする際の文学上の注意点(2014年6月号) [2014]

  この「実り」に掲載されている和歌は、のべにしたら膨大な数になります。中には、自分が知っているものや、手元にある本と内容が微妙に違うことがあるかもしれません。今日はそんな疑問にお答えしようと思います。
 まず、古典的な和歌はもともとすべて手書きであったということです。手で書き写したものは「写本」と呼ばれます。現代のように原版があって印刷するわけではないので、誤記も含めて広まっていきます。古典文学全集などでは、どのような系統の写本を底本(拠りどころにする写本のこと)としたのか、どのように対校(写本どうしを対比して、より本来の歌の形に近づける作業のこと)したのかについて解説しています。ですから、例えば古今集の何番目と、はっきりした出典が分かっていても、少し違った歌が出現してくるのです。
 ただ、問題はこれだけではありません。万葉集などは、いわゆる「万葉がな」が使われている漢字かなまじり文(表意文字と表音文字の混ぜ書き)です。万葉集が成立したとされる七六〇年頃は、古今集成立(九〇五年)の頃のように、かなを多用して和歌を書くことがなかったため、例えば「清明己曾」と書かれてあったら、それこそ「すみあかくこそ」「すみあかりこそ」「さやけしとこそ」「あきらけくこそ」「さやけくもこそ」「きよくてりこそ」「きよくてるこそ」「さやにてりこそ」「きよくあかりこそ」「まさやけくこそ」「まさやけみこそ」「きよらけくこそ」「さやけかりこそ」と十三通りもの訓み方が可能なわけです(澤瀉久孝「清明」攷『萬葉古徑』より)。さらに実際には、これ以外の訓み方がされていたとしてもおかしくはないのです。
 ちなみに、万葉集より古い時代の古事記や日本書紀に出てくる歌は一字一音の万葉がなのみで書かれているので、こうした問題は起こりません。ただし、古事記と日本書紀とで同じ歌がある場合、一文字だけ違うということもあるからこれもやっかいです。万葉集の訓みが複雑と感じるのは我々現代人だけでなく、すでに平安時代の人々にとってさえ難解だったようで、平安人は推量して何とか訓みをつけていました。これを「古点」といいます。
 書の古典を学ぶことは、古典の臨書がすべてではありません。和歌を書くことは、書をする上で誰もが通る道です。その過程で文学的な知識を得ることが、書の奥行きを深くしてくれますし、また幅の広い教養を楽しむことにも繋がることと思います。

身体性のないコミュニケーション(2014年5月号) [2014]

 大相撲の力士が、取組直後のインタビューに答える場面。「素晴しい取組みでしたね」「あり………ぜーぜー」。「今の心境は」「えー……はーはー」。全力を振り絞って対戦した後、息があがってしまい、何を言っているのか聞きとりづらいときがあります。歌舞伎などを観ていても古典的な言葉遣いで、しかも独特の節回しで語るので、今何を話しているのかよく分からないこともあります。
 「身体論」という言葉をよく耳にするようになりました。「身体論」とは、大雑把に言えば、体を使った表現、及びそれを感受する人間の能力に関する研究のことを指します。にわかにこの「身体論」が注目されるようになったのは、身体性のない表現が増えたからでしょう。前出の力士が、絵文字付きのメールでいかに分かり易く、饒舌に勝利の言葉を表現しようとも、荒々しい息遣いと共に伝わってくる言葉の方が、受け止める側に直接訴えかける力が大きいものです。
 コミュニケーションには、必ず出し手と受け手が存在します。出し手がだれにでも分かるような平易な表現をすれば、だれでもよく理解してくれる……とはいきません。出し手は受け手のようすを窺いながら、時に変化球を投げかけるような表現で相手の注意を喚起します。一方受け手は「一体何を言っているのだろう」と頭をひねり、理解しようと努めます。双方の努力なしにはコミュニケーションは成立しえないのです。「かな書」などは何が書いてあるか分からない、という指摘を受けますが、肉筆という身体性の籠った美しい水茎の跡に、何て書いてあるのだろう、と頭をフル回転してみるのも、これも高いレベルのコミュニケーションに違いありません。
 メールなどの身体性のない文字コミュニケーションは、一体何を言わんとしているか理解しかねる時が多々あります。「ありがとう」の言葉一つをとってみても、言い方やそぶりでそのニュアンスが大きく違ってくるからです。
 身体性のないコミュニケーションは、場合によっては都合のよいこともあります。私が懸念しているのは、この仮面に覆われたコミュニケーションが、時に大きな危険につながること、それから身体性のないコミュニケーションに慣れてしまい、しかるべき時に、しかるべき表現、しかるべき感受が出来なくなってしまうのではないか、ということです。身体性のないコミュニケーションと、どう距離を置くか、また身体性のあるコミュニケーション能力を高めること、これらは今や社会人が求められる最も重要なスキルになりつつあります。どうかこれからも筆記具を手に執る時間を大切にしてください。

「実り」増ページによせて(2014年4月号) [2014]

 今月号から本誌は四ページ増えました。まず師範部が一ページ増え、それから学生部の最優秀作品は一ページ増えたのと同時に、作品のサイズも大きくなりました。優秀作品は今まで四段だったのが五段となり、掲載数が多くなりました。会員の増加に伴い、誌面の改編が求められていたところ、今回実現の運びとなったわけです。
 優秀作品欄に掲載されることは、その作品が高く評価されたことであり、素晴らしいことに違いありません。ただし、それでおしまい、ということではなく、ぜひそれを前進につなげていただくことをお勧めします。書道の作品などは、目の前で座って見ていると何となく上手に書けたな、と思っていても、いざ黒板などに貼って数メートル離れて見てみると、意外や目の前では分からなかった面が顕となったりします。自らの作品を俯瞰することにより、行の曲がりや、余白、配字、字粒の大小、線の太細などが一見されるため、学習を進めるには大変効果があるのです。
 写真掲載となった自分の作品を観察するのもこれと同じ作用があります。実際に書いたものより縮小され、しかも同一課題の作品が並ぶので、自分の作品の特徴が浮き彫りになってきます。自分では右肩上がりにならないように書いたつもりが、比べてみるとけっこう右上がりが強いのに気付いたりします。また自分の作品が写真掲載にならずとも、他の作品から同様の学びを得ることも出来ます。「実り」は、利用の仕方次第で得るところがどんどん増える教材なのです。
 師範・準師範作品は同一課題の創作作品となっています。ですから、これが正しい、という答えが一つあるわけではありません。各自が毎月の課題に頭をひねり、書き上げ、それが作品となり実りの誌面に掲載されます。作品を書いている時には気付かなかった書きぶりが掲載されているのを見て、それについて学ぶことがさらなる発展につながります。
「書」をするということは本当に難しく、奥深いものだと最近つくづく思います。上手に書ければそれでよし、でもないし、また、学習を続ければ高い教養も必要になってきます。書は心画、心の中身を描き出す絵、ともいわれるように書をすることは気恥ずかしくもあり、脳に大きな活動を促す行為でもあります。脳によいしょと働いてもらうには強い意志が必要です。そんな、ともすれば遠ざけがちとなる書ですが、「実り」は、それを出来るだけ楽しく、やる気を促すよう作られています。
 会員の皆様がこれからも書を友とし、「実り」と共に心豊かに稽古を進められることを祈念し、これからも本誌の製作に邁進したいと思います

アナログVSデジタル(2014年3月号) [2014]

 電子機器を駆使した相手を、肉体派のヒーローが打ち負かす。といったストーリーの映画をよく見かけるようになりました。ヒーローは時に、言うことを聞かない機械を蹴とばして直し、五感を研ぎ澄ませて敵に勝利します。人間の潜在的な能力の躍動に魅せられ、爽快な印象をもって映画を見了えるわけです。
 これが、逆だったらいかがでしょう。正義の味方は、人類が造り出した機械に最後は負けるのであった、おしまい、では何ともやるせないですね。日々、機械を使いこなしているつもりが、機械を使うことを強いられているようなデジタル社会に我々は暮しています。映画という息抜きの世界では、デジタル派を自認する人々も、実はアナログ派だったりするからこそ、こうした映画が流行するのでしょう。
 今年、開成中学の入試に「かな」の書き順が出題されて話題となりました。ひらがなの「や」と「ら」それからカタカナの「ヲ」です。みなさんきちんと書けますか。また、大学センター試験では、漢文の素読(音読)の効用についての設問がありました。これからの社会、手書きの手紙や対面の会話より、メールで何もかも済ました方が効果的であり、学校教育においてもその技能を習得させることに力を注ぐべきだ、というのなら、もっと設問も違ったものになったはずです。日頃から手で書いたり、面と向かって会話をしたりすることの必要性を現場の教員らも強く感じ始めているようです。
 最近では、教育関係者の研究会などに招かれることもあり、デジタル社会の昨今、中には紙のノートではなくパソコンをノートがわりに使っている人もよく見かけます。そこで、私が簡単な記憶力テストなどをすると、パソコンでノートをとっている人が、手書きでノートをとっている人よりも記憶力が鈍っていたりして、私の話にも説得力が増すところです。まして、このテスト自体、本人に脳の衰えを自覚させる効用もあり、少しずつではありますが、アナログと目される行為の侮り難い側面を知っていただく契機となっています。
 デジタル機器は、人々の暮らしを豊かに明るく照らしてくれる可能性に溢れていると私は思います。ただ、それとどう向き合っていくかについて考えることの方が、今は重要であるとも思っています。この難題を解決すれば、映画で味わうような爽快感が日常の暮しにも訪れてくれるのではないでしょうか。