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書道はスポーツか?(2019年2月号) [2019]

書道には言葉を書くという「国語」的な側面、字形や配字について考えるという「美術」的な側面、筆脈や抑揚をリズムに乗せて描くという「音楽」的な側面、それに指を細かく使うという「体育」的な側面があると申し上げたことがあります。大胆な動作はないものの指の細かい動きは前頭葉の広い領域を動かすので教育上重要な位置を占めることには違いはないのですが、「体育」や「スポーツ」の範疇には入りそうにありません。スポーツは本来筋肉を大きく使い、体を鍛えてくれます。
 いわゆるeスポーツが正式なスポーツと認められるかが話題となっています。例えばフェンシングなどはeスポーツでも可能でしょう。ただし、本来の剣術は、打たれればそれだけ痛いわけで、剣を振るう方も、その剣をどのように扱えば相手がどう傷つくかという実体験を獲得しています。スポーツ選手が爽やかで人気がある人が多いのは、理屈ばかりだけでなく、粉うことなき実体験を積み重ねてきたからに他ならないでしょう。
 書道教育の世界にもICTの活用が始まっています。しかしこれにも現場の指導者からは疑問の声が上がっています。以下は岩手県立盛岡第一高等学校教諭の三浦真琴先生の言葉です。――アクティブラーニングやグループ活動、ICTの活用などが一律に取り組まれているように思われる。生徒は慣れているので、書道で試みた時も展開はしやすく、成功したかに思えるが、本当に生徒の心を動かしたか疑問に思うことがあった。それはおそらく、生徒自身の実生活や現代の社会を背景とする生徒自身の価値観や感性を働かせた活動であること、つまり生徒にとって「実感的」であることへの視点が欠落し、学習方法のみが一人歩きをしているために生じることなのだろうと思われる。――(全国大学書写書道教育学会 第三十三回滋賀大会 シンポジウム資料より)
 赤ちゃんは、母親と目を合わせたり、実際に色々なものに手に触れることによって世界を認識し、自己を確立していくといいます。成長の段階に応じてこうした実体験の場を提供することは教育が担う責務です。書道にはスポーツのような「実感」をする、という魅力もあるはずです。

少子高齢化社会に書が出来ること(2019年1月号) [2019]

 少子高齢化により、日本の経済力や社会保障の基盤が危うくなりつつあると、よく聞くようになりました。政治家がもっと出生率を上げよう、などという発言をしますが、これはお上の指示で動くものではないでしょう。
 幼い子供の虐待が後を絶ちません。子供を授かることは人間の生存本能に関わることですが、子供に対して怒るにせよ、してはいけないことをしないのが「抑制」という人間の脳の高次な能力です。先日、子供が習字を教わっている場面で、小学校低学年の児童が、手本を書いている先生の顔をのぞきこみながら、何で習字の先生ってこんなにやさしいの、と真顔で話しているのを見かけました。江戸時代の庶民の学校である寺子屋では、主に習字が行われており、師弟の情宜は大変深かったといわれています。よく道端でみかけるお地蔵さんの中にも、寺子屋の師匠を慕って建てられた寺子地蔵というものが今も多く残っています。
 人生百年時代といわれます。現役を引退しても数十年の長き人生が待っています。出来ることなら健康で生き生きと暮らしたいものです。私の周りには書をする方が多くいます。皆さん共通する点は年を重ねても若々しく元気ということです。自分の弟や妹の介護をしているのだ、という人も少なくありません。シルバー人材センターの毛筆筆耕の講習会などに出かけると、はじめは老人然としていた人が何日か講習会に通ううちに表情や着ている服が明るくなったり、人とコミュニケーションがとれるようになったりします。これには主催側の職員も驚く程です。若い頃から学習をする生活習慣がある人程、認知症になりにくいと専門医は言います。ただし、その生活習慣を高齢になっても維持出来るかどうかが大切で、まさに学ぶに遅きときなしです。
 昨年は書字と脳の研究で、文字を手書きしたり、パソコンで打ったりするようすをNIRS(近赤外光脳機能イメージング装置)を使って多くの人の脳の活動を観察させていただきました。もちろん手書きとタイピングの違いについてデータはとれたのですが、それとは別に、何もしていない、安静閉眼状態になると、言語やコミュニケーションを司る脳の領域の血流が著しく上昇するようすが観測出来ました。これはいわゆるDMN(デフォルドモードネットワーク)というものではないかと考えています。DMNとは何もしていない時に動く社会的知性と呼ばれる脳の機能です。朝起きてから夜寝るまで、食事や移動、仕事や勉強の時間すべてにおいてこのようなDMNを活動させる時間がいつあるのか気になります。今の日本人は、せきたてられるかのように機械に向かっていないといけないのでしょうか。ぼーっとしているのなら何か忙しくしていた方が脳を活動させるのでは、という世間一般の考えの逆を行くようなデータですが、学識と教養に溢れた僧侶が、昔から座禅などを大切にしてきたことを思えば納得のいくところです。人類七百万年の歴史の中で、このような生活環境となったのは、ごく最近のことです。人間が原始の頃から持ち得る本能に関わるエネルギーの活動の場が失われないか心配です。
 今年は今迄の研究を社会に問うていく一年になりそうです。文字を獲得した人類が数千年の時を経て、書くことの意味を確認する時は近づいています。