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乙(おつ)な書(2013年2月号) [2013]

 よく珍味を乙な味などといって表現します。この「乙」とはもともと音楽で甲より一段低い渋い音のことで、転じて「粋なこと」「味なこと」を指すようになったものです。
 美しく文字を書きたいと習字を始めると、まずは「まっすぐな線を書く」とか「囲まれる部分のあきを均等にする」「たて画を太く、横画を細く」「左側より右側を大きめに」「字粒を揃える」など整えて書くための稽古を重ねるようになります。このような練習をするのは美しい文字にはルールがあるためです。これに加え細かい指の動きを必要とする基本点画をマスターし、リズムのある書きぶりがある程度出来るようになったとします。基本があれば応用が必ずあるように、書の世界では次に応用としてわざと「くずす」ことをします。あえて中心をずらしてみたり、わざと横画を太くしたり、意図的に字粒の大小をつけたりします。
 三度の食事も一年間では千度を超える食事になります。その中で週末にはいつもと違った珍味が出てきたりするとこれも楽しくまた食欲をそそります。ただし、朝から晩まで一年中、例えばからすみを出されたとしたらそれが大好物だとしてもさすがに飽きるでしょう。まさに珍膳も度重ならば美味ならず、魚と珍味は三日経てば鼻につく、の言葉どおりです。
 書にも同じことが言えます。書の古典、王羲之の蘭亭叙などはくずしの要素をふんだんに盛り込みながら全体の調和も見事に図られています。ただし「くずす」のと「くずれている」のは別物で、前述のような基本的な力量の上にくずしの要素をどう加えていくかの匙加減こそが「書風」であり、くずれているだけの書は「くせ字」ということになります。
 絵の基本練習で名画モナリザを写し書きすることはしないように、書においても初中級者には古典の名跡を写す学習はお勧めできません。乙な書きぶりは厳しい書の稽古の中にあって一種刺激的で楽しい要素です。しかしそれも程度の問題で、過ぎればまたかと食傷気味となり、志したはずの書から足が遠のく原因ともなりかねません。
 乙であるということには「奇なこと」「異なこと」「風変わりなこと」といった別の意味あいもあります。食べ物とは違って口に入るものでないだけに、乙な書の追求が、書生活のバランスをくずすことのないよう自覚し注意するべきでしょう。