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書き込む(2020年4月号) [2020]

 書の稽古において「書き込む」ということは必須です。それはまるで体育のように他から見たら繰り返し同じことを練習します。そこには知識の修得とは別の身体性が大きく関わってくるからです。
 「書を学ぶは急流を沂(さかのぼ)るが如し、気力を用い尽くして旧処(きゅうしょ)を離れず」という言葉があります。これは、懸命に書の稽古を積んでも、上達を実感しづらい、ということでしょう。自分で書いた書の良し悪しは、自らの目線で評価されます。自らが考えたままに手指が動いてくれればよいのですが、書を鑑賞するのと比べ、書を作り上げるには手指の運動という要素が加わってきます。書において、手は目線より上がらない、と言われるのはそのためです。「書き込む」という稽古を通して、書を評価する目線も同時に上がっていくものです。ただ漠然と書いていても意味がありません。江戸時代の寺子屋教育の指南書にも「字形清書(せいしょ)の直(なおし)能々( よくよく)相考(あいかんがえ)」とあるように、どのように書けばよいか考えを深めていかなくてはなりません。
 作品を仕上げるのに書き込むことは大切ですが、何十枚、何百枚と書き込んで、最終的に出来のよいものを選んでみたら最初の数枚目だったり、書いた時は失敗だ、と思っていたものがよかったりすることがあります。これは、どうしたらよりよい作品に仕上がるか、と思考を深め書き込むうちに、自らが注意すべきと思う点に集中しすぎたりして、しばしば起こることです。しかし書き込むことは決して無駄ではなく必ずや次につながる有意義な稽古といえます。
 私も、いつの間にか夢中になって数多く書き込んでいることがあります。紙や時間も随分と消費されていることに後で気付きます。ランナーズ・ハイといってランニングを始めて数十分位たつと、走る苦しみがある種の爽快感に変わることがあるそうですが、書き込むのもよく似ていると思います。疲れきって筆が止まるまで書き込むのも上達や愉しみの一条件かも知れません。書を頑張り過ぎても、体育と違い怪我や事故の心配がほとんどないのも書の稽古の魅力の一つでしょう。「書き込む」ことは、結局は作品となって現れてくるものです。会員の皆様の御健筆を心より祈念しております。