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思考を深める(2023年6月号) [2023]

 人工知能の開発が進むにつれて、それが人の暮らしを豊かにしてくれるものかどうか疑問符がつき始めています。教育の場面では人の知能を育もうとしているのですから、それを他の人や機械にしてもらえば、その人の発達を妨げかねません。便利な機械は社会の欠かすことの出来ない重要なインフラとなっており、これなしに現代の生活は成り立たないでしょう。便利すぎる機械に依存することなく、上手に使いこなしていくためには、まずは使う側個々人の「教育」が必要になってくるはずです。 
 対話型AI(チャットGPT)は膨大なデータを集めて、そこから確率に基づいて答えを出すだけ機械であり、「考えて」いるわけではありません。また大量の情報の処理過程では間違いが起こる可性が指摘されています。こうした間違いが起こらないように、機械の情報処理の精度が極限にまで上れば上がる程、既に自分の頭で考えないことに慣れきった人は、機械の出した結果の明らかな間違い気付かなくなるかも知れません。現在、この人工知能とどう向き合っていくか世界全体がその対応をられています。
 身近な例では、学校でのレポート課題です。課題を入力すれば答えを作ってくれるのですから、それこそ自分で作ったはずのレポートの内容を知らなくても課題をこなすことが出来てしまいます。出典の明記された確かな文献を手がかりにして、それをどう自分なりに構成していくか考えるのがレポート作成の基本です。こうした手続きをスキップしてしまったら、頭を鍛えるという教育そのものが行われなくなってしまいます。
 このような懸念が現実のものとなってきている昨今、レポートを手書きで提出するよう求める先生もいるそうです。何だかんだといってコピペがはびこるのだから、せめて自分の手で書いて頭を使ってもらおう、という諦観です。手書きは脳の様々な領域を並列的に動かす行為です。このような時代だからこそ、教育としての書と向き合うことの意味について考えなくてはならないと思います。