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和様と唐様(2022年9月号) [2022]

 一般に和様とは日本風のものを、唐様は中国風のものを指します。書の世界にも和様と唐様があります。「売り家と唐様で書く三代目」の川柳の書のことです。
 三筆といわれる嵯峨天皇、空海、橘逸勢の頃は当時、最先端を行く唐の文化の摂取に努めました。空海や橘逸勢は遣唐使船に乗り唐の都へ留学しています。当時の手本として仰がれていたのは王羲之の書です。逸勢の書などは王羲之と大変良く似ています。唐様の書は、例えば王羲之の十七帖にあるように草書でも、紙面に喰い込むかのようにピリッと一点一画がシャープに描かれています。三筆の書にはこうした様式が色濃く反映されています。
 和様の創始者は小野道風というのが定説です。道風は藤原佐理、藤原行成と並び三跡と称される能書家です。三筆の頃よりも時代が下り、海外の文化を自国風に消化していったのでしょう。和様は唐様と比べ軟らかく、ゆったりとした書きぶりです。なぜこのようになったかについては、仮名との交ぜ書きが挙げられています。私なりに考えれば、漢字を表意文字としてだけ使用してきた中国にとって、文字はそれ一つ一つが独立して意味をなすものであり、一方、日本の場合、万葉仮名の出現が示すように、これを音としても使います。「山」を「也末」と書くことによって日本の言葉を文字として表します。この時、「山」という一つの意味をなすのに、これを一つ一つ区切るように書くよりも、なるべく一つのまとまりとして書きたくなるものではないかということです。
 この推察の是非はさておいて、この和様の書は江戸時代、寺子屋といった庶民の教育の場において主流となります。人々の多くは暮らしの中で普通この和様を以て文字を書きます。唐様の書はというと、儒者や文人といった知識層の中で尊重されていました。前出の川柳は、遊芸で身を持ちくずした三代目が、かっこうをつけて書いたということで、江戸時代における唐様の位置を物語っています。
 明治の頃になると、習字の教科書は唐様の書へと変わっていきます。維新以降、列強諸国に追いつけという風潮の中、日本的なものが敬遠され、書の教育はアルファベットというわけにはいかないわけで唐様となったわけです。こうした歴史的な視点から書を考えてみるのも面白いものです。

東京書藝展に参加しよう(2022年8月) [2022]

 コロナ禍で延期となっていた本会主催の東京書藝展(令和五年四月五日・水~九日・日)の要項が本号と共に配布されました。既に作品の完成予想図が出来上がっているような方もいれば、まだ出品するかどうかも決めていない方もいらっしゃることでしょう。作品の提出期限は来年の二月で、まだかなり時間的なゆとりがあります。日々の稽古や月々の課題、各種試験に取り組むかたわら、ぜひ展覧会への出品作品の制作にも挑戦してみて下さい。
 発表を目指して作品を創り上げていく作業は、日頃の練習とはまた違った視点を与えてくれるもので、書の豊かさ、楽しさを理解する契機ともなります。会場となる東京池袋の東京芸術劇場は広々として高い天井の空間があり、長条幅などの大作も引き立ちます。細字作品もお勧めです。細かい文字を最後まで丁寧に書ききることは集中力と忍耐力が必要です。細字作品への注目度は高く、観覧者は自分を書く身に置きかえて感嘆します。また、書は造形性やリズム性を伴う言葉の芸術です。題材とした言葉をいかに表現するかによって、その言葉の伝わり方が大きく異なってきます。書式や書体を先に決めるのもよし、書いてみたい言葉探しから作品制作を始めるのもまたよしです。
 学生部(幼年~中学生)については規定課題となります。一生のつきあいとなる手書き文字です。書は大変深い奥行きのある人の行為であり、まず、その型を身につけることは今後の発展のためにも必要です。自在の力を得るためにも格に入ることは大切です。学生部は一般部とは異なり褒賞の制度があります。受賞を目指して全力を尽くして下さい。そうすれば書の道のみならず様々な場面で活躍するチャンスが増えることでしょう。保護者の方もお子さんの成長や努力ぶりを実際に会場で目にし、記念として作品を残しておくことが出来る機会です。ぜひ参加をお待ちしております。
 今は夏真盛り。来春の展覧会の事ですが、出品の期限迄はあと六カ月余りです。会員の皆様の作品にお目にかかれることを今から心より楽しみにしております。

同音の漢字による書きかえ(2022年7月号) [2022]

 「手帖」と「手帳」、「衣裳」と「衣装」、「遺蹟」と「遺跡」。どちらが正しいのでしょうか。これは実はどちらでもよいです。それでは、なぜこのような複数の書き方が存在するのでしょうか。
 戦後、GHQは日本の国語改革を推し進めました。その報告書には以下のような一節があります。「現在の日本文字の如く、暇のかかる表現と通信の手段を弄するといった贅沢なことをなし得る近代国家が一つでもあろうか。われわれは日本文字の徹底的改良が必要だと考える。日本文字は学習上恐るべき障碍をなし語学や数学、自然科学や社会科学の学習に振り向ける時間が初等教育の間、日本文字を学びあげるために失われる。」として、GHQは日本の文字のローマ字化をも提案したが、日本側の抵抗もあり漢字かな交じりの日本語は守られることとなりました。
 ただ、五万ともいわれる漢字のすべてを日常普通に用いることは一般の生活の上でも負担となるため、昭和二十一年、一八五〇文字の当用漢字が制定されました。この当用漢字は日本の文字をこの漢字ですべて表そう、という制限色の濃いもので、例えば「拳」の文字は当用漢字に含まれないため「けん銃」と表記するなどしました。昭和三十一年には、国語審議会が当用漢字の使用を円滑にするため、当用漢字以外の漢字を含んで構成されている漢語を処理する方法の一つとして、当用漢字の中の同音の文字で置き換えることを示しています。それが冒頭の例です。ちなみに前にある方が本来の漢字であり、後の方が書きかえによるものです。ですからどちらでも正しいことになるわけですが、何が違うのか、といったことを知っておくことは書を学ぶ者にとっては必須です。この書きかえの一覧には「破摧」「蹈襲」「耕耘機」などの書きかえ例なども示されています。これはそれぞれ「破砕」「踏襲」「耕運機」ですが、このあたりになると書きかえの方が当たり前となり、本来の漢字はほとんど見かけない程となっています。
 書をすることは文字を美しく、また豊かに表現することにありますが、それと同時に文字に対する理解を深めていくことも大切にしなくてはなりません。

六年ぶりの東京書藝展(2022年6月号) [2022]

 四年に一度の東京書藝展が、令和五年四月五日(水)~九日(日)の五日間、池袋の東京芸術劇場で開催されます。本来なら令和二年の秋に行う予定でしたが、コロナ禍のため延期となっていました。
 本会が主催するこの東京書藝展が四年に一回の開催であるのには理由があります。展覧会書道盛んなりし昭和の中頃、実用に根ざした書を見直そうとしたのが本会の設立の理念の一つでもあります。この「実り」の″実”にもこの思いが託されています。展覧会の出品製作に追われ、本来書を通して涵養すべきことがらがおろそかにならぬよう、四年に一度という期間を置いての開催となったわけです。ただし、この間には、四年に一度の誌上展があります。つまり二年に一度、作品として発表する機会があるということです。
 書を学ぶは、まさに自己を厳しく律する修行そのものです。これによって育まれる人の能力については平素私が述べているとおりです。書の学びによって獲得された人の感覚は、再び書となって現れてきます。書の修行がこうした根の部分を養う作業だとしたら、展覧会の作品は、いわば地上に見える枝葉であり花です。作品を美しく着飾る表装、広々とした展覧会場は、まさに書のはれ舞台ともいえます。下を向いて黙々と手を動かす書の場面とは対照的に、展覧会は多くの人が行き交い作品を見上げる雅びな書の場面です。
 東京書藝展は本会の会員はどなたでも参加が出来ます。作品制作が初めての方もいらっしゃるでしょう。どのような流れで書を作品としていくかは今後、この実りの案内を参考にしたり、先生と相談をするとよいでしょう。月々の課題や試験に追われる中、展覧会に向けての作品制作は書を学ぶ上で一里塚として残ります。出品作品が多くの観覧者の目にふれることで、また自分の目線が上がっていくのも展覧会ならではの効用です。
 来年に行われる展覧会は、四年どころか六年ぶりとなります。コロナ禍で自宅にこもることを強いられただけ、書は自らの奥底により深く根を張ったと考えれば、来年の東京書藝展は今迄以上に充実したものとなることでしょう。会員の皆様のご参加を心よりお待ちしております。

補点とは(2022年5月号) [2022]

 「神」や「舞」といった文字の右下にひとつ点が打たれているのを見たことがありませんか。この点は一般に「補点」と呼ばれていますが、他にも「補空」「リズム点」「おしゃれ点」などと呼ばれることもあります。補点は「補空」といわれるように文字の空隙を埋めたり、「リズム点」の言葉どおりリズムを整える役割があります。この補点は篆書には見られません。この書体が使われていた頃は、まだ文字にリズムを加えて書くということはしませんでした。篆隷に筆順なし、という言葉があります。例えば「方」の文字を書くとしましょう。正しい筆順は最後に左下の画を払います。この筆順であれば「トン・トン・トン・トン・スー」というリズムで書けますが、誤った筆順とされる最後に右下の画をはねる書き方だと「トン・トン・トン・トン・トン」と、一本調子になります。
 習字において筆順を正しく書くことは大切です。リズムよく書くことは文字を美しく書くことに通じます。例えば文章に書きおろす際に、「です」「です」「です」と続いたら、今度は「ます」としたくなるもので、「た」「た」「た」ときたら「である」と調子を整えたくなるものです。文字を書く際にもこうした調子を整えることは身らの内なるものを他に伝えるためにも重要です。
 篆書体には補点らしきものは見られませんが、隷書体が書かれた時代の後期の頃には補点が散見されるようになります。レタリングのように非連続の書体であった篆書体にはリズム点の必要がなかったからです。隷書体が書かれるようになると徐々に連続性が高まり、こうしたリズム点が出現してくるわけです。例えば「土」の文字に点が加わった「圡」を見たことはありませんか。これも補点です。もちろん「土」も「圡」も読みや意味はまったく同じです。私の知り合いにも圡方さんがいます。
 たかが点一つの話しですが、この補点の存在は、現代の書が形だけではないことを示しています。言語性、手の巧緻な動き、造形性、それにリズム性を並列的に処理することは手書き以外、人間の他の活動には見られません。文字を打つことが日常となる中において、こうした側面から考えてみると、また手書き教育の意義は明らかになることと思います。

海外の手書き教育と日本の習字(2022年4月号) [2022]

 「習字」というと、日本的な学習風景が想い起こされるかもしれません。海外における「手書き」は、例えばイギリスならハンドライティングです。このハンドライティングもCursive writingとManuscript writingに大別されます。前者は「筆記体」で、アルファベット同士が互いにつながりを持って書ける形です。後者は「ブロック体」「活字体」で、書物などに印刷される形です。欧米ではこの二つの書体を両方学ぶことが一般的です。
 イギリスの小学校は日本と同じ六学年制です。日本の学習指導要領にあたるThe National Curriculum in Englandでは、ハンドライティングに関する学習内容が示されています。第一学年では「正しい姿勢で座り、鉛筆を望ましい持ち方で持つ」「頻繁にかつ個別に直接指導を要する」「筆記具(鉛筆、ペン)の大きさは、児童の手にとって大きすぎないようにする」「児童にとって望ましい筆記具であれば望ましい持ち方が保持でき、悪い習慣を避けられる」……等々です。こうした内容、注記が学年ごとに詳細に記述されています。第二学年になれば「正しい字形の復習や練習を頻繁に行う」、第三・四学年では「続け書きができるようになる」とあります。第五・六学年ともなれば「読み易く自然な運筆で、速度を上げて書ける」といった内容まで加わってきます。こうしてみると、日本の書き方教育の指導内容と大きな違いがあるようには感じられません。イギリスにおける入門期の手書き教育は日本の寺子屋教育と似ています。基本点画の練習とはいえ、それは線遊びに近いものです。「滑らかで流動的な線を書くことに役立つ」ということで、クルクルとバネのような形の線を描きます。脳科学の視点からすれば、手の連続した動きは、脳の言語野の活動を促すわけで、脳が形を言葉として認識する準備となります。
 いわゆる「習字」は欧米にもあるわけです。アルファベット圏の手書き重視の教育を顧みれば、日本の文字を手書きする意味について考えを深める機は熟していると思います。

落款印について(2022年3月号) [2022]

 作品を書いた後、作品の端に年月日や詩文の作品名、題名、自分の名前などを署し、印を押して完成の意を表します。学生部の作品にも、学年や名前を書き、完成を示します。これらを総称して落款と呼びます。
 落款という語は、「落成款識」を略した言葉との説があります。一般に「落成」とは書画の完成を意味し、「款識」は署名捺印のことを指します。「款識」は主に周時代につくられた古銅器や祭器に鋳込まれた文字で、「款」は凹なる文字、「識」は凸なる文字のことを意味します。
 落款に使われる印は古くから、中国で信を示すために用いられてきましたが、日本では、現存する中世以前の書には見られません。中世より明との貿易がさかんになり、宋・元・明の書形式が伝えられてから、日本で中国式の落款や押印がされるようになったのです。
 さて、近年、内閣府により「押印廃止プロジェクト」が進められています。身分証明のために印を使用する国は、現在の世界では日本のみといえるほど、珍しいようです。しかし書画の世界では、押印廃止の潮流は、おそらく無いでしょう。押印は完成の意味合いのほかに、作品への装飾的な要素が多分に含まれるためです。印と書の相互関係は作品全体の出来を大きく左右します。
 落款に使用する印は姓名印(主として白文)、雅号印(主として朱文)、堂号印(書斎の室名。主として朱文)、引首印や押脚印などです。成語などを用い作品の上部(頭の部分)に押すのは引首印、下部に押すのは押脚印と呼ばれるなど、押す位置にもゆるやかな決まりがあります。印の大きさは、一般的には落款の文字よりもやや小さめがよいでしょう。しかし絶対ではなく、本文や落款の文字との調和が重要視されます。
 今月号の「実り」には、毎年恒例の学生部の書き初め作品が掲載されています。作品に調和するように年号や名前が書けているか、印は使用せずともよいですが、押してある場合には作品に対しどのような効果があるか、それもみどころの一つです。しかし学生の作品ですから、難しく厳しく考えるのではなく、落款に興味を持つきっかけになれば良いと思います。

片方の手を使う手書きか  両方の手を使うタイピングか(2022年2月号) [2022]

脳の右半球は、体の左部分からの情報を受けとり、これをコントロールします。また左半球は体の右部分からの情報を受け、これをコントロールします。これを「交叉支配の原則」といいます。
 手書きとタイピングの脳の賦活実験によれば、右効きの人が手書きした場合、タイピングより手書きの方が左半球の活動が活発になります。これは手書きの方がタイピングより複雑な感覚や運動を処理するからと考えられます。一方、右半球の方はどうでしょうか。右手のみで行う手書きよりも両手を使うタイピングの方が右半球の活動が高まると思いきや、実際には手書きの方が脳の右半球の活動も活発となります。
 手書きする際、ほとんど使わない左手を支配する右半球がなぜタイピングよりも賦活が高まるかについては二通りの説明が出来ます。まず第一に左右脳は脳梁によってつながれており、左右の脳が共調して働いているという点です。つまり、左半球の活動が高まれば、その反対側の右半球も活動を始めるということです。第二に、右半球は主に、空間的な認知と構成の役割を担っているという点です。手書きはタイピングと比べ字形や筆順を考慮しなくてはならないため、この空間構成の要素が影響しているとも考えられます。いずれにせよ両手を使うタイピングよりも手書きの方が脳の左右両半球共に活発になることを考えると、教育の上で手書きすることの意義はまた明らかになります。
 ノルウェー科学技術大学では、二〇二〇年に脳波計を用いた手書きとタイピングの実験を行い、これも同じような結果を導き出しています。社会におけるICTの存在価値を認めつつ、手書きすることが脳の様々な領域とつながりを促す行為であり、教育上重要であるとまとめています。今後、これらの研究の積み重ねが高度に進化した科学と人間がどうつき合っていけばよいかという課題に答えを導き出してくれるかもしれませんし、また書をする私たちもこうした事実と真摯に向き合っていくべきでしょう。

現代において日本語を手書きするということ(2022年1月号) [2022]

 明治の頃、西洋文明を積極的に採り入れた日本は、「書」の扱いをどうしたものかと考えました。西洋には筆で文字を書き、それを美術品とみなす習慣がなかったからです。江戸時代、世界的な封建の時代、日本は唯一、百万人都市江戸を実現しています。寺子屋といった庶民の教育機関や、そこで学ぶ生徒の数は、これも世界で群を抜くものでした。その功績がクローズアップされている渋沢栄一も寺子屋の出身です。寺子屋での日課のほとんどは毛筆で文字を習うことにあてられており、渋沢自身も生涯書を能くしました。
 翻って現代、文字を手書きすることは人間の脳に一体どのような影響があるのか国境を超えて研究が進んでいます。その手段はMRIや脳波計によるものなど様々です。我々もNIRSといった近赤外線を用いた研究をしていますが、興味深いデータが示されています。例えばパソコンのキーボードで文字を打つよりも、手書きした方が脳の左前頭葉の活動が大きく活発化します。このデータを読み解くに、手指の動きの大きさの影響ではないかとか、慣れの問題はどうかなどと指摘を受けますが、それを解析に加えても、やはり左前頭葉の活動の大きさは変わりません。左前頭葉は言語を始め、注意や判断、意欲、創造、抑制、情操などといった人間の高次な機能が集中しています。目に見えず、またそれ自体知覚のない脳についての話しなのでピンとこないかもしれませんが、これらの研究は着実に進んでおり、いずれ我々の日常に反映されていくことでしょう。
 此度、本会の教務担当役員で総師範の川原名海先生が「こころが落ちつくペン書道」(アーク出版刊)を上梓しました。「書道」というと墨や筆などを準備しておもむろにとりかかるといった、やや敷居の高いイメージがあるかもしれませんが、ペン字なら身近な筆記具であり、毛筆より気軽にとりかかれます。日本の言葉を美しく手書きすることの大切さが上手に説かれており、書から遠ざかっていた人にも手書きの世界へとやさしく導いてくれます。共に書字と脳の研究を行っている各界でご活躍中の先生方も専門領域の視点から、また自身が書とどう向き合っていくかという目線で分かり易くコメントを寄せてくれています。ぜひ手にとってご覧下さい。
 西洋のアルファベットをタイピングする場合、漢字でいえば、まず、その漢字を構成する始めの点画(部首)を入力することになるわけです。日本語の場合、その文字の「音」を入力し選択となります。日本語は手書きすると世界で最も高度であり、それは芸術の域に迄達する程奥深く、タイピングとなると脳の活動としては相当簡易な言語となります。
 日本人の空気のような存在である日本語です。この素晴らしさや大切さにはなかなか気付かないものです。日本の文字を美しく書こうとする意味について多くの人が考え始める、そんな年になるようにと祈念しています。

脳を育む情報とは(2021年12月号) [2021]

 「情報」といえば、文字、形、動画、写真、音声といったものが思い起こされることでしょう。特に「視覚」は人間やサルが進化の過程で見ることへの依存を大きくし、視覚の重要性が増した影響で、他の動物よりもこの感覚が発達したといわれています。
 「道徳の教育は耳より入らず目より入るものなり」と福沢諭吉の言葉にもあるように、言葉よりも視覚に訴えた方が、時に効果的であることは、私も指導経験から同感です。現在、脳科学の発達により、他の人の動きを見ることによって、さも自分が同じ動きをしているように感じる脳神経細胞の働き「ミラーニューロン」の存在が明らかになってきています。基本的な学びを習得する際には視覚情報を活用することは大切です。例えば書の学習の場面でも、指導者が実際に書いて見せることは学ぶ人にとって得るところの多いものです。
 情報教育は、主に視聴覚の情報をどう読み解き、活用していくかが課題となっています。一方、脳は前述のように視覚情報に大きく依存しつつも、他に、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それに温覚、冷覚、圧覚、平衡感覚、内蔵感覚、姿勢を維持したり筋肉や関節の深部感覚など、実に様々な情報を認識し読み解いていきます。脳における「情報」は、視覚、聴覚だけではなく、こうした脳のあらゆる領域を以て消化されていくものであり、日常生活の中で経験する事象そのものすべてが脳の成長にとっては栄養豊かな「情報」になるわけです。コロナ禍にあってリモート授業が行なわれる中、対面での教育が見直されるのは、このあたりにも理由があるのでしょう。
 OECD加盟二九ヵ国が参加する二〇一二年PISA(学習到達度調査)のビッグデータを活用した二〇一五年のPISA調査委員会の分析結果によれば、学校でコンピュータの活用時間が長くなると、学力は低くなると報告しています。なぜこのような結果になるのかという問いに対し、PISA調査委員会は、コンピュータは情報や知識の獲得、また浅い理解には有効だが、深い思考や探究的な学びには有効でない、との解釈を与えています。目下、私の書斎は年賀状作りで沢山の書籍や筆墨、画材でひっくり返っています。このような状況も楽しい学びと創造につながっていくのではないのでしょうか。